田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 8

養鶏貯金

 江東金融組合の貯金奨励方法は、あくまで周到な注意が払われている。単に貯金を奨励して現在家庭経済節約から吸集した貯金では飽き足らず、如何にして副業乃至産業を奨励してその収益を貯金せしめようと、先ず副業奨励方面に意を用いて前記の如く、養鶏模範部落を設置してその生産した鶏卵の販売収入の一部を預金せしめようとする方法で貯金を奨励しているが、学童貯金の如きも家庭から特に捻出せしめた金を集めては面白くないといって、学童に対しても種卵を無償にて配布し、前同様自ら学業の余暇に養鶏に従事し、その収益を貯金せしむべく、目下児童の希望者に種卵配布中である。
             (昭和二年五月十三日平壌毎日新聞より)


朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 7

   模範部落に遂年増加して、江東鶏の名を馳せん

 最初養鶏模範部落の場所は、邑内からあまり遠くない実地指導に便利な前記江東面下里を選定して、同里の住民を殆ど全部組合員として、大正十五年度には組合の精神と業務に対して徹底的に実地指導を行って、組合の趣旨の普及に努めたのである。道では奨励鶏を名古屋種に決定しているが、決定前に既に計画された右部落に普及する鶏種は、白色レグホーンであって、実行方法としては成鶏及び雛の配布を為さず、種卵を無償で配布するのであるが、種卵配布の場合は成鶏乃至雛を配布さるる時と違って、自己の手に依って孵化することとなるから、従って生まれた雛に対する愛着が一層深く、従って設置の趣旨が徹底的に行わるるであろうという綿密な考えから、種卵を配布するのであって、単に経費の都合ばかりではないのである。配布の方法は養鶏家五十戸に対して、一戸当十五個宛として、その種卵七百五十個は、重松理事の生産にかかる種卵を無償で母鶏就巣の順序で配布する事として、昭和二年二月から五月上旬までに完全に配布済みとなっている。重松理事は更に進んで学童養鶏及び付近希望者という順序によって又種卵の無償配布をしていた。曩(さき)に配布した種卵は大部分雛となっていることは前に記した通りである。

それから模範部落にて生産した鶏卵や鶏は組合に於いて協同販売に附して、その代金の一部を貯金せしめて、二十円以上になったら牛を買い入れしむるようにしている。

 第一模範部落が完了すれば、更に第二模範部落を設置することになっているが、その設置方法は第一部落と殆ど同様である。配布する種卵は第一模範部落設置の際配布したのと同数の種卵を第一部落から、それぞれ寄贈せしめ、相互扶助、共存共栄の組合精神を吹き込み、かくの如くにして第二より第三、第三より第四模範部落を設置して、順次之を増設して、将来は一郡の養鶏産業をすべて改良種として、立派な一郡の養鶏産業にしようとの計画であるが、郡当局でも重松氏のこの事業に頗る共鳴し奨励に努めているから、数年の後には同氏の事業も必ず実を結んで、氏は江東郡の産業的恩人と謳われる時が来るに相違ない。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 6

  私財を投じて副業の奨励を図る
   養鶏模範部落を設置して努力する重松金組理事
   江東の農村経済  産業リレー第一班池田記者

 江東金融組合の主要施設事項の一つに、養鶏模範部落設置という特色のある一項がある。これは農村経済の振興を図るために、副業を奨励して貯金の資源を与え、一面鶏種改良の数年間の継続事業として今年度から設置されたものであるが、大正十四年十月から同十五年中は、専ら種鶏の作出に努力した。金融組合の施設事項となっているが、実際重松理事個人が既に私財一千円以上の犠牲を払って、養鶏数百羽の飼育をなし、養鶏模範部落並びに学童等に配布する種卵の如きも勿論無償で配布したのであるが、既に配布したもの約千五百個に上り、設置場所は江東面下里ショウ項洞一円で、五十戸に対して配布した同氏の種卵が孵化して、養鶏模範部落は同氏の徳を讃えながら、今正に実現の第一歩にあるのである。重松理事の庭には所狭いまでに沢山の鶏舎が建てられ、氏が選定した種鶏白色レグホーンをはじめ、道決定の名古屋種その他が健やかに飼育されている。重松夫人の如きは重松理事の勤務中、氏の百数十羽の種鶏の世話に朝からかかり切りであって、夏期中など陽に焼けて、若き女の身空で真っ黒くなって重松氏を助けながら、よく今日に及んだものでる。同氏夫妻の燃ゆるような熱と不屈な奉仕の仕事に敬意を表して、その模様を少し調べてみる。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 5

 翌る昭和二年の二月より、下里養鶏模範部落の設置、学童養鶏、付近の希望者といった順序に、白レグと名古屋種の種卵をドシドシ配布して、当初計画の通り千五百個の種卵を完全に無償配布を了して、その年の初夏には、部落では改良種の雛が盛んに活動していた。

 丁度その頃、平壌毎日新聞社では、産業リレーを行って、西鮮三道の産業状態を調査して、連日掲載報道していた。そして当組合にも第一班の池田記者が訪ねて来て、いろいろ調査したり、親しく実地を観察した結果、昭和二年五月十三日の平壌毎日新聞に、養鶏模範部落の記事が詳細に報道された。今それを茲に掲げて模範部落設置の記事を省略することにする。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 4

 そこで私は副業養鶏を最も適当なるものと信じて、之を奨励することにした。即ち養鶏の産物の販売によりて、時々の収入を得せしむるのである。凡そ人は有る時の十円の金よりも、無い時の五十銭か一円の金がより以上に貴重であり、また役立つものである。そして更に進んで農民に副業を授け、貯金の資源を与えると共に、一面また近時個人主義の思想勃興し、ためにややもすれば協同主義の精神没却せられんとする傾向あるにあたり、副業養鶏の奨励並びに模範部落の設置等の施設は啻に組合員の経済の発達を促すのみならず、更に組合員間の協同主義の精神を強固ならしめ、又組合員と組合との関係を緊密ならしむる点においても、偉大な効果があるものである。

 そこで固き信念と強き決心とをもって、愈々本事業に着手したが、着手するに当って、妻にも本事業の目的及び性質を充分に理解せしめておく必要があるので、妻を連れそちこちの養鶏場を視察して、大正十四年八月着任と同時に私費を投じて種鶏二十羽を買い入れ、大正十五年は自ら鶏糞にまみれて、専ら自分の手許を充実し、百羽の成鶏を管理して、全く陣容を整えたのである。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 3

 赴任して区域内の事情をいろいろ調査してみると、中農以下就中小農に属する農民は、毎年三月から六月下旬の蚕繭の出回り期までは、糧食も尽き果てゝ、全く日常の生活にも困難を来たすものが少なくない。
そしてこの種階級の人々は、一朝凶作に遭遇するか、あるいは病魔に襲われると、全く再起さえも覚束ない状態である。これは畢竟農村に於ける一ヵ年の収入が平均しないで、主として収穫期ばかりであって、次の収穫期までは殆ど収入の道がない結果である。殊に本道の如く二毛作を為し得ざる地方に於いては、農作物のみによって随時の収入を得、収入期の平均を保たしめて、生活の安全を図ることは困難である。故に此の種階級の救済策としては、殊に其の地方に適した副業を奨励し臨時収入の機会を多くし、なるべく収入期の平均を図ることが肝要である。
しかしながら適当なる副業を奨励して、疲弊に苦しみ困難に悩みつゝある中産階級以下の組合員をその苦境より脱せしめんことを焦慮工夫するも、しかも容易に適当なる副業を見出すことが出来ないのであるが、真面目に組合員のために図り、真剣に組合員を生かすために工夫をなし斯く副業を得せしめる事を痛感し、之を得る事に熱心なれば、そこに自ずと副業は生まれ、当初その成績みるべきものなしとはいえ、これを実行する中に副業は培われ、之を継続する中に副業は成長し、やがて庶民から生活安定の福音として大いに歓迎せらるるようになる。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 2

 慈恵医院の院長は温顔に微笑みながら、私に対して「貴方は全く再生したのだ」と言ったことがある。

 半島開拓の聖壇を碧血で血塗った私は、今また再生の希望と歓喜とに燃えて、更に残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。
そうだ、愛と力と熱とは総てを征服する。こう決心したとき、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた。

 そして私は何の躊躇もなく、大正十四年七月、江東金融理事として、再び第一線に立ったのである。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 1

 大正八年三月八日、陽徳分遣所の朝露に轟いた一発の銃声は、遂に私を終生不具としてしまった。秋風そよぐ夕べ私はそゞろに疼痛を覚え、幾度か弾痕を撫して泣いたことがある。  

 ある時は花柳病患者と見誤れ、またある時は心なき人から不具として嘲られたりしたこともあったが、その度毎に私の顔には淋しい笑いが漂うていた。
 しかしながらまた皎々たる月明りの夜、静かに黙想して、あの騒擾の際、私が貫通銃創を蒙って、風前の燈火の如く危うく命の絶えなんとするその刹那、敢然万死(かんぜんばんし)を冒して私を死地から救い出してくれた恩人進さんの友情を思い、また自分も傷つきながら私を案じてくれた組合員崔さんの真情を思い、将又嘗て書記たりし洪君の変わらぬ情誼を思うとき、私は人間としての感激の血潮が躍動した。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 5

 辞して南方の小高い丘に上って、その当時葬られた暴徒の墓に詣でた。芝草に覆われた土饅頭の墓には、所々に名もない小さい白い花が無心に咲いていた。私は静かに跼(せぐくま)んで暫し黙祷を捧げた。

 踵を返(めぐら)すと私が嘗て撃たれた元の憲兵隊の正門の扉は赤い夕日に照りだされていた。

 私は芝草を踏んで丘を下りた。裏山の保護林では閑古鳥が淋しく鳴いていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 4

 嘗て騒擾事件に負傷した二人が、今此処で六年目に巡り会って、お互いに負傷の予後を案じて問い交わしたことは、誠に美しい人情の発路で、そこに真の内鮮融和幽玄が湧き、庶民提唱の平和が築かれるのである。融和は正に一片の浮き雲の如きもので、如何に巧みな辞令や、流麗な文字を美しく羅列しても、それが真の心の叫びであり、誠意の披瀝であり、真心の融合であり、人格の接触であらねば、真の内鮮融和は期せられない。

 理事としての私は組合員崔さんの人間としての真情に動かされると同時に、また彼等を動かさずには止まないという熱情が胸いっぱいに燃え上がった。
 業務調査が済むと、私はかねて舊知のそちこちを挨拶に廻って、元憲兵隊の跡である駐在所に行った。すると其処の憲兵上がりの主任は、
「お名前はよく拝承しています。理事さんはこの建物は思い出が多いでしょう。」と言って茶をすゝめてくれた。
 私は主任の許しを得て、嘗て収容された宿直室や毛布を吊って光線の漏れないようにして不安な一夜を明かした宿舎や、負傷して倒れた構内のそちこちをステッキに縋って、無量の感慨に浸りつゝ徘徊した。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 3

 私は人ごみの中を押し分けて、見覚えのある町を懐かしみつつ歩いて行くと、露店の傍らからフイに私の方に駆け寄って、
「アイゴ! 理事さん!」と私に飛びついてきた者があった。この不意打ちに私はびっくりしたが、それが常々案じていた崔さんであったので、思わず、
「おゝ、崔さんか・・・ よく元気でいてくれた・・・」と叫んだ。

 崔さんの頭は大分白くなっていた。そして日焼けしたその顔には、最早幾筋かの深い皺がよっていたが、笑えばそれがなだらかな線を描いて却って田舎の質朴な好々爺のように見えた。
崔さんは先刻から、私がステッキをついて歩いて来るのを見ていたらしく、
「理事さんは大分足が良くなったようですね。」と言って自分の子供の足でもよくなったのを喜ぶかのように心から喜んでくれた。
「崔さんはその後、頭の傷は痛まないかね。」
「いゝや、私は大丈夫ですが、理事さんの傷はどうですか?」
「有難う、気候の変り目や、無理をした時は痛むが、それでも今は大変良くなって、こうして出張も出来るようになったですよ。」
「大事にして下さい。何れこの薪を売ってしまったら、組合に利息を支払いに行きますから、またお目にかかります。」と、崔さんは笑いながら、松葉をつけた牛を引いて人込みを押し分けて行った。私は崔さんの後姿を見送って、轉た懐舊の情に堪えなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 2

 私は連合会に転勤して丁度三年目に再び山紫水明の陽徳組合に業務調査のため出張する機会を得たので、新たに感慨の血が躍動した。
 もうその頃は邑内の諸官公署は八里手前の大湯池温泉の所在地に移転されていたが、それでも破邑として舊陽徳は新道路の両側にだんだん家が新築されて、少しも衰微の模様はみられなかった。

 折からその日は市日で、狭い町に人々がいっぱい溢れていたので、私は邑内の入り口で自動車を乗り捨てた。

 市の人波を分けて町の中ほどに来ると、ささやかな飲食店がある。その角から右を向いてみると、六年前に担架に乗せられ、公医の所に行く途中、民雇に担架を置き捨てにして逃げられた桑園が、今も昔のままに残っていた。桑園の中には二人の鮮婦が赤い夕日の中に佇んで頻りに桑を摘んでいた。私はもう胸がいっぱいになった。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 1

 私は負傷してから丁度一年八ヶ月の間松葉杖に縋っていたが、それから無理にステッキに換えて歩行の練習をした。その負傷後二年有半をなお陽徳に在勤していたが、色々の関係から私は連合会に転勤することになった。

 思えば私は大正七年一月寒風骨をさす頃、完全な身体で着任したが、大正八年の騒擾に死線を越え、遂に跛足となってしまった。そして大正十年十月、秋風身に沁む頃、愈々陽徳を出発することになったのである。私にとっては誠に感慨が深かった。 


 さらば思い出深き陽徳の山よ、川よ、温泉よ、村人よ、崔さんよ・・・と私は飽かぬ別れを惜しんで陽徳を出発した。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 3

 こうして二週間もいたが、組合の事務が気になったので、また山の温泉で湯治ときめて陽徳に帰っていった。もうその頃は蚕繭がぼつぼつ出回る頃で、元山や平壌から繭買いが入り込んでいた。

 私は毎日事務が引けると、松葉杖に縋って、組合の花壇を一巡りして帰ってくるのが何より楽しみであった。
その日も午後五時頃、事務所をしまってから、松葉杖に縋って、日々に伸びゆく花壇の草花を見ていると、そこへ一人の周衣に鳥打帽子の若い男が、自転車で組合に乗り付けたが、組合の植込みに佇んでいた私を見ると、転ぶようにして飛び下りた。その男の視線がハタと合った時、私は、
「おゝ!」と叫んでよろよろと松葉杖に縋ったまま前に進み出た。それは洪君であった。
「あゝ、理事さん」と洪君は自転車を投げ捨てるようにして花壇の方に走ってきた。

 私は松葉杖を小脇にかい込んだまま右手を出して洪君と堅い握手をした。絶えて久しく会わなかった洪君と私は、もう感慨無量で胸が張り裂けそうであった。そして二人の目には早くも涙が輝いた。洪君は漸く口を開いて、
「理事さんが重傷を負われたことは、あそこにいる時、此処の組合員の崔さんから聞きました。それからまた私の妻が陽徳を引き揚げる時、同じ自動車に乗って、理事さんは慈恵医院に入院されたと聞いて、大変心配していましたが、まだ松葉杖に縋らねばなりませんか?」と洪君は私の変わった姿を打ち眺めて暗然とした。
「ありがとう。この春、崔さんから君の噂を聞いて案じていたが、僕も昨年の騒擾で、まだこんな有様だよ。」
「いゝや、全くなにもかも夢のようです。私もあの時やはり理事さんの傍らに居るか、或は妻子と一緒にいたら、あんな事にならなかったでしょうが・・・・・」と洪君は俄かに顔を曇らせた。そして尚も、
「実は此処で生まれた子供にも、この春帰ってきて、初めて会ったようなわけです。」と洪君は子の父としての自分を深く顧みて、太い吐息を漏らした。
「いや、あの時実は僕も君のことを非常に心配していたところ、朝倉理事から知らせがあって全く驚いたが、然しね洪君、過去は過去だ。これからは大いにお互い働こうよ。」
「それで実は私も遊んでいても仕方がないと思いまして、今度ある資本家をみつけて、繭買いを始めて、久方振りに理事さんに会いたかったので漸く今来たところです。
「とに角、此処では思うように話もできない。まあ僕の家に行こう。」と私は洪君を促した。

 私が松葉杖に縋って歩きだすと、洪君は自転車を押してついて来た。事務所のポプラの若葉が風もないのにサラサラと音をたてた。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 2

 藤本病院は、内科婦人科花柳病の専門医で、花柳病患者は中々多かった。入院してから二三日目のことであった。私はヂアテルミーにかかるために、壁伝いに縋り歩いて隣の患者控室に行った。そこには和服を着た中年の男と、洋服を着た会社員らしい若者とが、中央に据えつけてあった大火鉢を取り囲んで座っていた。私は軽く頭を下げて二人の中に割り込んで、足を投げ出して座った。するとその男は見ていた新聞を膝から落として所在なさそうに私の方を見た。
「貴方もとうとうやりましたね。」と馴れ馴れしく話しかけられたが、私はその男がとうとうやったですねと言ったのか、やられたですねと言ったのか明瞭に分からなかったので、
「何ですか?」と聞き返したら、その男はプーッと煙草の煙を輪に吹いて、
「私も二週間ほど前に切開しましたが、実際花柳病っていやなものですね。しかしあなたももう直ぐ治るでしょう。」
その男はすっかり私を花柳病患者と思い込んでいるらしかったが、私はあまりのばかばかしさにあきれて返事をする気にもなれなかったので、ただ笑っていたが然しそれも亦無理のない話であった。 

 嘗て私の後任に内地から陽徳に赴任してきたYさんを、私が松葉杖に縋って出迎えたら、Yさんは自分は奉天の合戦で貫通銃創を蒙ったことがあったが、貴方は何処で負傷したかと同情した。また子供の時に柿の木から落ちて腕を折った老人のある書家は私を見て、貴方は何の木から落ちたかと聞かれたことがあった。人は誰でも自分を基準として物事を判断するのが普通であるから、その若い花柳病に罹った男が私を花柳病患者とみたのもまた不思議はなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 1

 崔さんは帰ってきてからも、度々組合に出入りして、従前よりもっと親しくなった。市日などには別に用はなくても、必ず組合に寄ってよく私を見舞ってくれた。
「理事さん、足は痛みませんか? まだ松葉杖はとれませんか?」などとよく私を慰めてくれる。その度ごとに私は崔さんの親切がしみじみと嬉しかった。

私は邑内の近くの幽邃な石湯池の温泉にしばしば湯治に行ったが、何しろ生死の境にあった程の重傷であったので、やがて一年有半にもなるのに、まだ松葉杖が外されなかった。

慈恵医院を退院するとき院長が、もうこの上は温泉と電気治療のヂアテルミーが一番いいと教えてくれたが、その頃慈恵医院にはヂアテルミーの設備がなかった。丁度新聞を見ていると平壌の藤本病院にヂアテルミーの広告が出ていたので、早速私は出壌して藤本病院に入院した。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 4

 それは春のある日曜日であった。私は愛犬ゴールを連れて松葉杖に縋って陽徳川のほとりを散歩していた。すると平元道路の方から、白い周衣を着た男が暫くじっと私の方を見つめていた。
「理事さん理事さん。」と呼ばわって、手で頻りに招いていた。私はその男の方を向いて歩いた。その男もまた私の方に向いて歩いて来た。そしてだんだん接近して行ったとき、実に実に私は大きなショックを受けた。
「おゝ、崔さん!」
私は思わず声をたてて叫んだ。崔さんは私が杖に縋って捗捗しく歩けないのを見て、自分で私の傍らに駆け寄った。そして松葉杖に縋っている私の姿をしげしげと打ちまもっていたが、
「アイゴー、理事さん!」
松葉杖を握っている私の手を堅く握ったその手を通して、崔さんの熱情がグングン伝わってくるような気がした。
私の変わった姿を見て、崔さんも流石に感慨に堪えないらしかった。私も全く予期しない、恋の豹を捕った崔さんに会って急に胸がこみ上げてきた。正に万感交々の有様で、何から話せばいいか全く分からなかった。
「崔さんは何時帰ったですか?」
「ハイ、理事さん、今が帰り道ですよ。」
「そうかね、実は昨年騒擾の時、私はどうかして崔さんに会って、一口話したいと思って、随分探し歩いたですが、とうとう巡り会えなかったが、その結果がとんでもない事になったですね。」
「理事さん、もうその事は言わないで下さい。みんな私の考えが間違っていたのです。全く考えが足りなかったのです。」崔さんはもう暗然として、恐ろしい夢から醒めたような顔をしていた。
「あの時、図らずも公医さんの内で会ったが、その時はお互いに話すこともできなかったが、崔さん、貴方の傷はその後どうですか?」と私は崔さんの額に残った淡い創痕を見て聞いた。
「いゝや、私の傷はこの通り軽傷で、僅か一週間ばかりで治りましたが、あの時理事さんは大変重傷のように見受けまして、非常に心配いたしましたが、今も尚この杖で、定めしご困難でしょう。」と崔さんは心から案じていた。
「でも崔さんは老人だから、大事にしなさいね。」
「ありがとう。時に理事さん、あそこにいた時、洪さんに会いましたよ。」
「えッ、あの洪君に?」
「ハイ、その時理事さんの負傷したことを話したら、洪さんは非常に驚いて、どんな様子であったかと聞きましたから、公医さんの所で一寸会ったが、担架に乗せられて、何でも大変重傷らしかったですよと言ったら、洪さんはそれは大変だと言って、非常に心配していましたよ。」と崔さんは細細(こまごま)と洪君に会った顛末を話した。
「有難う、本当に二人に心配をかけて済まなかったね。」私は丁寧に頭を下げた。
「そして今度、私も洪さんも特に赦されて一緒に帰ることになりましたが、洪さんは是非一度陽徳に行って理事さんにもお目にかかりたいと言っていました。私も何れまた、ゆっくり組合の方にお伺い致します。」と言って崔さんは何度も頭を下げて、後ろを振り向きながら帰って行った。私は何時も変わらぬ崔さんの麗しい人情にいたく動かされた。そして私は卯の花の咲き乱れた丘を越えて行く崔さんの後姿を何時までも見送っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 3

 こうして大正八年が淋しく暮れて、翌る年の春また若草が萌ゆるようになっても、私は依然として松葉杖に縋らなければ歩行ができなかった。そして私は自分の家でも、事務室の中でも松葉杖でコツコツコツコツ歩いていたが、随分不自由であった。

 ある書物に自分の妻を亡くした男が、電車の中や汽車の中で女性を見ると、第一番に亡くなった自分の妻と同じ年頃の女性が目につくと書いてあったが、隻脚の自由を失った私はそれ以来、子豚を見ても、小犬を見ても、驢馬を見ても、牛を見ても、子供を見ても、第一番に目につくものはその足であった。また電車に乗っても、汽車に乗っても、人の足ばかりが目について仕方がなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 2

 私共はそれから三四日徹夜して看護に手を尽くしたが、更に何の効果もないので、止む無く奥さんが付き添い、三十八里の山道を氷嚢で冷やしながら、死を賭して平壌に出て慈恵医院に入院すると、直ちに腸チフスと診断され、隔離病舎に収容された。進さんが全快して退院するその日に、今度は奥さんが感染して、進さんの荷物をそのまま残して同じ室に入院した。それから二ヶ月目に進さん夫妻は子供を連れて帰ってきたが、その時は既に転勤の辞令を貰っていたので、私共が待ちわびていたかいもなく出発してしまった。

続いてOさんも転勤した。そしてその年の秋には、騒擾当時在勤していた人々は全員転勤して私一人が取り残されたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 1

 病院から久し振りに帰ってみると、陽徳の山野はもう初夏らしい彩りがみえていた。草庵の楓さえも知らぬ間に手洗鉢に覆いかぶさる程伸びていた。

 負傷以来、七十五日目に初めて風呂に入って、熟々(つらつら)自分の身体に見入ると、撃たれた右足はげっそりと肉が落ち、全く子供の足のように痩せて、生々しい弾痕が大腿部と臀部に熟れきったナツメの皮を張ったようにのこっていた。

 私は自分の変わり果てた姿を見つめて、轉た感慨無量であった。そして風呂から上がると、病床に横たわっている命の恩人進さんを松葉杖に縋って訪れた。進さんは私が退院して帰る一週間前から病みついて、毎日毎日熱が上がるばかりで、今では四十度近くになって、久方振りに私が帰ってきても、僅かに頷くばかりであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 5

 その翌日から毎日十時になると、ゴロゴロと長い廊下を輸送車で引きまわされて治療を受けにいったが、僅か射入口に残った三寸位の傷が中々治らなかった。元来刀傷は肉が接合すれば治るものであるが、貫通銃創は肉にトンネルのように穴を穿けられるので、中々肉が上がりにくい。それに公医がどうしても化膿させまいと思ってあまりに消毒しすぎて肉が硬化したために、新しい細胞が中々できないのであった。そしてX線で骨に故障がないかと写真を撮ったり、熱気療法をしたりしたが、容易に治らなかった。

 その間、富永部長や関田課長や連合会の佐藤理事や高見君が訪れてくれ、色々世話をしてくれたが身に沁みて嬉しかった。また本府の和田理財課長や里見屬や最寄組合の理事が訪ねてくれたことも嬉しい感謝であった。

 四旬に余る長い病院生活を続けているうちに、キルクを充填したような鮮やかな弾痕を残して、漸く傷口が癒えたので、私は再び山紫水明の陽徳に帰任して、あの太古そのもののような山の温泉で湯治と定めて、一先ず病院にさらばを告げた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 4

 その翌日また昨日の輸送車に乗せられて、診察室に引き出された。そしてH外科医長は、博士の院長さん立会いの上診察を始めた。臀部の弾痕を押さえてみたり、前の傷口からガーゼを引き出したり、足を捕えてグルグル廻してみたりした結果、これは大きな血管や神経や足の運動に必要な重なる筋肉が大分切断されているが、しかし骨には故障がないらしい。しかしX線で写真を撮ってみないと分からない。とに角中々重傷だと診察された。

 そこで私は寝台に横になったまま、
「どうでしょうか? 治りましょうか?」
「治りましょうかとは?」とH外科医長は私の顔を見た。
「将来跛足になるでしょうか?」と今度は具体的聞いてみた。
「それは免れないでしょう。私は貴方がこれだけの重傷でよく助かった。全く運のいい方だと思っていますよ。」と口重いH医官は言った。私は多少の希望を持っていたが、跛足は免れないでしょうと言い渡されたので、今まで少しづつ動かすことができていた足が、急に全く動かなくなったような気がした。

「それでは、この状態で進むと、何時頃になれば松葉杖に縋らないでも歩けるようになりましょうか?」とまた私は聞いた。すると今度は傍らにいた院長がもの優しく、
「さァ、それは何とも申されませんが、とに角貴方は再生したとお思いにならなければね。」とにこやかに言って眼鏡越しに私の顔を見た。

この院長の言葉に対しては、もうそれ以上何も聞くことはなかった。すべてが宿命である。私は心の中で再生、再生と繰り返して安らかな気分になり、だんだん明るい心持ちになることができた。否寧ろ今までに体験したことのない勇気と心の輝きをはっきり意識することができた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 3

 慈恵医院の前に自動車が着くと、そこには関田理財課長や佐藤連合会理事や、私が初めて本道に赴任してとき出迎えてくれた高見君が今は連合会の職員となって出迎えてくれた。私はみんなの顔を見ると、急に悲しさが胸いっぱいに込み上げてきた。

 その日は既に時間後になっていたので、ただ包帯の巻き替えだけし、私は輸送車に乗せられて、長い廊下を白衣の看護婦に、ゴロゴロゴロゴロとと引きまわされて、遂に西室の四号に収容され、茲に淋しい病院の一夜を明かした。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 2

 その翌朝邑内の人々から見送られて邑内を発った。自動車には旅団長の一行と私共と、それに二人の子供を連れた洪君の奥さんが図らずも一緒に乗り合わせた。

 春になったら必ず奥さんを迎えに来るといって出発した洪君は、今絢爛たる春に巡り会いながらも遂に迎えに来ることもできないような身体になってしまった。僅かの知人に見送られて、人目を憚るようにして、長い間住み馴れた陽徳を孤影悄然として引き揚げていく奥さんのいじらしい姿を見たとき、私は理事として一掬の涙を催さずにはいられなかった。

「奥さん。」と私が言ったら、僅かに、
「ハイ・・・。」と答えたばかりで、洪君が出発してから生まれた無心に眠っている赤ん坊を抱きしめて顔をうつぶせてしまった。私はもう胸がいっぱいになって、それ以上何も言えなかった。

 自動車は重畳たる山岳を或は上り或は下りして、爆音を立てながら三十八里の山路を、午前八時に出発して漸く午後五時過ぎに平壌に着いた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 1

 それから間もなく平壌から、井戸川旅団長が副官と共に、陽徳守備隊の視察に来られた。そしてその夕方、旅団長はわざわざ私の茅屋を見舞いのために訪れられた。
四方山の話から私の負傷のことに移ったとき、旅団長は煙草を吹かしながら、
「僕も若い士官のときに、大腿部と胸部とに二発貫通銃創を蒙ったことがあったが、それが今なお気候の変り目と厳寒にしびれて痛みを感ずることがあるが、それでもこの通り元気だよ。まァとに角負傷は予後が大切だね。殊に君のは僕のと違って大分重傷だ。それに弾丸は前方から射入して大腿骨の上を走って、歩行に最も大切な臀部の筋肉が切断されているようだから、大事にしなけりゃね。明日平壌に一緒に行きましょう。」とすすめてくれた。

 それで私は傷口は癒えてはいないが、身体も大分確りしてきて、途中自動車に揺られても出血する恐れがなくなったから、愈々平壌に出て慈恵医院に入院することにした。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 5

 私は読み終わって和田理財課長や土地調査局時代の工藤課長やその他、友人知己の厚意に感泣した。そして尚も四五通の手紙を見ていると、そこへ郡庁のOさんが来て、
「今日こんな義金募集の趣意書が来ましたよ。」とポケットから一通の印刷物を出して、私に差し出した。

  頃者各地に於ける不穏事件は、一部の盲動に基因するに過ぎざるも、其の民心を蠱毒し、延いて国内の秩序を紊乱(ぶんらん)したること甚だしきものあるは、遺憾に堪へざる所なり。殊に平安南道の   如きは、之が為めに幾多の惨事を惹起(じゃっき)したる事は、新聞   紙の報道に依り、既に各位の了知せらるゝ所たるを信ず。即ち左に掲ぐる諸氏は、地方の治安を保持する為に、極力之が鎮撫に尽   したりしが、多数群衆が其の勢を恃みて、暴行を敢えてするに當り、  勇進奮闘して防止に努め、遂に兇徒の毒手に殪れ、または創傷を被るに至りしものにして、其の職務に效したるの忠誠は、上下官民の  斉しく感激描かざる所なり。而して死者の遺族中には、近く夫親に   見ゆるの楽を夢想しつゝ、渡鮮の準備中突如たるこの変転に遭遇したる薄幸の寡婦可憐の嬰兒あり、或は後継者を失ひて、家運の将  来を悲観し、切に人世の無常を歎ずる老父母あり。或は纎手銃を  取り、雲霞の如き暴徒に向ひて飽くまで防衛を試み、夫君及び其の全員が壮烈の最期を遂げたる危急の場合に処して、尚ほよく武器を敵手に委せざるの措置を完ふし、纔に虎口を脱したる沈勇稱すべきの未亡人あり。此等の遺族の哀傷と殉難諸氏の憤恨とに想到し、更に又傷者の眷属近親等が憂愁の裡看護に尽せるの状況  を推察するに及びては、悲痛胸に迫り、断腸の念轉た禁ずる能はざ  るものなり。依って不肖胥謀りて、大方の同情に愬(うった)へ義金を得て、之を遺族及傷者に贈り、一つは以て死者の霊魂を慰め、一つは以て蓐中に在る傷者の苦患を慰むる所あらむとす。希くは有志各位微衷の存する所を諒とし、奮って応分の醵出(きょしゅつ)あらむことを切望の至りに不堪乃ち左に要項を具し此段得貴意候
                                     敬白
   大正八年三月
                     発起人  工 藤 英 一
                          松 寺 竹 雄
                          井戸川 辰 三
                          關 口    半
                          小 河 市之丞


              死 傷 者 氏 名

               死     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

成川憲兵分隊   陸軍憲兵中尉従七位勲六等     政池覺造  大分県
沙川憲兵駐在所  陸軍憲兵上等兵          佐藤實五郎 大分県
孟山分遣所    同                左藤 研  宮城県
沙川憲兵駐在所  憲兵補助員            金 聖奎  平安南道
同        同                姜 炳一  同
同        同                朴 堯變  同

               傷     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

寧邊憲兵分隊   陸軍憲兵軍曹           中西彌三郎 奈良県
孟山分遣所    監督憲兵補助員          朴 仁善  平安南道
中和警察署    巡査部長             田村 三郎 福島県
陽徳金融組合   理事               重松 髜修 愛媛県
                                 (以上)
 
私は読み終わって、感慨に堪えないで、何時までも黙り続けた。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 4

 また私が大正六年十月まで土地調査局に在勤していたときの知己で、その当時総督府の総務局国勢調査課に在勤中の、吉田繼衙氏から、次のような来信があった。

  拝啓 今回の騒擾事件は誠に遺憾の極みに有之候処、
  平南は特に激しく又殊に御地は暴行に及び候趣きにて、
  豫而豪氣に満てる賢兄は、官民一致して暴民鎭撫中、
  憲兵隊に於いて重傷を負はせられ、目下療養中の由、
  此時此事を聞き生等同情に不堪、和田理財課長及工藤
  課長の発起にて、別紙の通り慰籍料醵集中に有之、不日
  御送付申上候へ共、何卒精々御加療遊ばされ、一日も
  早く御全快の程祈り上候
   三月十九日        總務局   吉 田 繼 衙
   重 松 髜 修 殿

  (別紙)
  今回の騒擾事件は、事理を解せざる一部暴民の所為にして
  既に我が半島の北半に波及せんとす。誠に遺憾の極みと
  謂う可し。聞く処に依れば平安南道陽徳金融組合理事
  重松髜修君は、去る5日午前9時、同地に蜂起せる暴徒
  鎭壓の為憲兵隊に應援中重傷を負ひ、目下療養中に
  屬すと。此の時此の事を聞く、千里相隔てゝ未だ其の實情
  を詳かにし得ざるも、同君の性行を想ひて、誠に同情に
  堪えざるものなり。即ち不肖等胥謀り、慰藉料を醵集して
  同君に贈らんとす。幸に御賛同あらむことを。
   大正八年三月
                  発起人   和 田 一 郎
                          工 藤 壮 平
                          長谷川 權 作
                          馬 淵 徳三郎
                          吉 當 繼 衙
                          新 宮 忠三郎
                          鈴 木 善太郎

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 3

 そんな中、毎日、新聞を見るのと配達されてくる手紙を見るのが何よりの楽しみだった。その日もいくつかの手紙が配達されたが、その中に同窓生で満鉄に出ている杉尾君からこんな手紙が来た。

  拝啓 貴兄は嘗て在校時代より、人に優れて勇気あり、
  義侠心に富める誠に敬すべき御人格なりしと、小生は
  いつも信じ居り候、果せる哉此の度の騒擾事件には、
  名誉ある御精神を発揮せられ、世人の周く敬慕と同情
  する処にして小生は親友として、我がものゝ如く嬉しく候、
  願くは一日も早く御全快するやう、伏して願ひ上げ候 敬具
   三月二十日                杉尾眞太郎
   我が敬慕せる重松髜修様

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 2

 公医のすすめで、間に合わせの松葉杖に縋って運動をすることになったが、それとても漸く門口へ出て行くくらいであった。勿論傷口はまだ癒えていなかった。そして撃たれた右足は、切断されなかった僅かの筋肉によって、漸く前後に三四寸動かすことができるに過ぎなかった。

 生まれて二十七年間、何の不自由もなく歩いていた私が、俄かに隻脚(せっきゃく)の自由を失ったことは、かなり大きな苦痛であった。

 最初の程は、三間四間と松葉杖に縋って歩いてみたが、その度毎に、大腿の傷がズキズキ痛んで耐えられなかった。
自分の家でも、手洗いに行ったり隣室に行ったりするのに、一々妻の肩か、松葉杖に縋らなければならないのは本当に不自由であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 1

 私が負傷してから二十日目には、漸く弾丸の射出口には肉が上がってきたが、大腿部の射入口はまだ四寸ばかり穴が穿いていた。その日の夕方に起こしてもらって、一人で壁に縋って、左足一本で漸く立ち上がった。しかし立ち上がったというだけでどうすることもできなかったが、絶えて久しく仰向けに寝ていた私は、辛うじて一本足で立ち得たことが非常に喜ばしくて、二三歳の子供のように「立てた。立てた。」と叫んで、唯嬉しさに涙をわけもなくこぼした。


 それから二三日してから、暖かい春の陽ざしが縁側に届くと、私は妻と進さんの奥さんの肩にすがって、左足で飛んで歩いて縁側の椅子に腰を下ろして、久方振りに組合の裏山の保護林を打ち眺めた。折から落葉松の美しい緑の新芽が伸び揃って、その下には白い楚々たる小米花が、くっきりと草むらの中に咲き乱れ何ともいえぬ風情であった。孔子廟やあちこちの部落には、真白に李花が咲き乱れて、私が苦悩に呻吟している間に、世は何時しか絢爛の春になっていた。  

 こうして私は椅子に腰かけて、草庵の縁先から、浮世の春を眺めるのが日課であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 6

 こんな話の真最中に、洪君の義父にあたる耶蘇教の牧師が見舞いに来てくれた。
 私は早速洪君が引致されたという通知のあった事を話した。すると牧師は、
「それは理事さん、何かの間違いでしょう。今回の事件は耶蘇教信者は何の関係もありませんもの・・・ 私はそんな筈はないと思います。」と言ったものの、年若いあれがもしやとでも思ったのか、牧師の顔にはその瞬間、さっと憂色が漂った。
「実は私もその通り信じたいのですが、先刻向こうからこの通り葉書が来たのです。」とそれを示すと、牧師はじっと見入っていたが、だんだん顔が妙に痙攣してきた。
「とに角心配ですから、明日あちらに様子を見に行ってきましょう。ではどうぞお大事に。」と言って牧師は倉皇として帰っていった。私は床の上から、ボンヤリと牧師の後姿を見送った。すると入れ違いに、組合のK書記が私の見舞いに入ってきた。そして、
「理事さん、あの崔さんが平壌に護送されて行きましたよ。今ここに来る途中会いました。」と突っ立ったまま話した。
「あの崔さんが平壌に・・・。」と言ったが私は急に電気に打たれたような衝動を覚えた。そして私はもうそれ以上聞くことも語ることも欲しなかった。

 私は図らずも、生存していた組合員の田井さんの手紙と、洪君が引致されたという知らせの葉書とを一時に受け取り、今また崔さんが平壌に護送されたと聞かされて、何だか夢に夢見る心地がしてならなかった。

 私は静かに目を閉じて黙想した。すると、今まで私の眼の底にしみ込んでいた三人の姿がはつきりと描かれ、更にこの三人についての錯綜した感情が、頭の中で錦糸のように縺れて、何だか頭がシンシン痛みだした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 5

「田井さんが貴方に自殺状をよこしたのは、丁度昨年の今頃でしたね。」と漸く進さんは口を開いた。Oさんは、
「あれをみても、中々人間は死ねないものですね。」と煙草に火をつけた。
「それは誰でも死にたくはないが、死ななければならぬ事情になるとか、又死より他選ぶべき道がないとか、或いは絶体絶命というような場合になれば、死は必ずしも恐ろしいものではないが、少しでも冷静になり、心に余裕ができると、死にたくなくなって、反対にどうかして生きていたいと思うものですが、田井さんなども、夜の甲板で大空の群星を眺めているうちに、つまり自然の精にうたれて、心に余裕ができたのでしょう。」と私が言ったら、Oさんは、
「俳人としての田井さんは、或いはそうかもしれませんね!」と果敢なく消えていく煙草の煙の行く末を見つめていた。私は更に、
「お互いが一度死を決心すれば、死は敢て辞するところではないが、先日の如く、時々刻々、不安の念に襲われながら死を待つが如き心理は、全く死よりも苦痛ですね!」と進さんの顔を見上げた。
「全くですよ。あんな時の心理は、到底筆や言葉では表すことはできないです。真はただ体験によって味わうべきのみです。」と進さんは煙草の灰を落とした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 4

 拝啓 前略御免下され度候、陳者理事様へは今更御手紙を
 差上ぐる事さへ、誠に面目なき次第に有之候、実はあの時断然
 自殺を決心し、夜の甲板上をうろうろとさまよひ居り候処、図らずも
 船員に発見せられて、厳しく監視せられたる結果、之が決行の
 機会を失し候まま、唯甲板に佇みて、大海の大空に瞬ける無数の
 群星を打ち眺め居り候処、その内段々と冷静に相成るに従ひ、
 生に執着を感じ、死ぬ覚悟を以て今一働きと存じ、又元の台湾に
 渡航し、さる郵便局に勤務致し居り候、顧れば昨年出発前後に
 当っては、多大の御心配相かけ候段、今更何とも申訳なき次第に
 候、何卒平に御許し下され度候、実は何かの機会に御挨拶をと
 思ひ居り候処、図らずも今朝、新聞紙上にて「陽徳金融組合理事
 重傷を負へり」の記事を拝見いたし、誠に驚愕仕り候、
 その後の御容態如何に候や乍蔭御案じ申上げ候、何卒精々
 御加療の上、一日も早く御全快の程祈り上げ候、先ずは不取敢
 御見舞申上候、早々。
  大正八年三月八日                田 井 囚 水
  重 松 理 事 様
 
 と進さんは、一息に読み下して、みんなと顔を見合わせた。私は全く死んだと思っていた田井さんから、今こうして見舞状を受け取ったが、あまりの事に、何が何だか解らなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 3

 Oさんは私の枕元に散らばっていた手紙や葉書を整理していてくれたが、内地から送って来た新聞の帯封に挟まっていて、見残された一通の白い封筒の手紙を引き抜いて裏返して見ていたが、
「おやッ! 自殺した田井さんから手紙が来ていますよ。」と頓狂な声を出した。
「えーッ?」と私はOさんが差し出した手紙を見ると、裏面に万年筆で「台湾にて 田井囚水」と書いてあった。

「おゝ、これは紛う方なき田井さんの筆跡だ。」
「やはり生きていたのですね。」と進さんは不思議そうに手紙を覗き込んだ。
「私が言ったのが適中した。」と、その当時生存説をとなえていたOさんは、適中した自分の予想に今更の如く驚いていた。私はもう頭がガンガンになったので、進さんにその手紙を渡すと、進さんは吸いかけていた煙草を火鉢の灰に差し込んで、封を切って読み始めた。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 2

 そこへ一束の郵便物が配達されたが、それは殆ど私への見舞状ばかりであった。その頃の私は、その手紙を床の中で何回となく読み返すことを楽しみとしていた。

 今も着いたばかりの郵便物を上から順に繰って、先ず差出人の名を見ていた。するとかねて洪君を紹介した朝倉理事の葉書があったので
、私は若しやと思って胸がドキリとした。急いで読み下すと、前半は私の負傷に対する見舞いで、後半は実に今まで三人で噂していた洪君のことであった。

 私はせき込みながら読み下した。
 「貴組合より転勤したる洪君は、辞表を提出すると共にS村に於いて 、耶蘇教信者と共に不穏の行動を為し、其の筋に引致され、昨日  当地分遣所に護送されたるが誠に遺憾の至りに存候。早々」
 私は手が戦き、声がわなないた。

「やはりあの洪君がねえ。」と進さんもOさんも岡田さんも皆、私の手からハガキを奪い取るようにして見て、三人共今更のように打ち驚いた。

 私は自分の手元から離れていった洪君の身の上を思う真情から、もしやと思って心配していたが、今その知らせを見て全く夢ではないかと疑った。そして横になったまま静かに黙想していると、洪君が赴任の際、雪の馬上に祈った姿や、崔さんが火田で作った玉蜀黍を持ってきてくれた姿が、今目の前にまざまざと描かれて、腸(はらわた)を断ち切られるような気がした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 1

「理事さん、傷は浅い。二週間・・・。」と言って公医さんは、私が負傷したとき励ましてくれたが、それからもう二週間は経ってしまったが、私の足は漸く腫れがなくなったばかりであった。

 私は静かに仰向けに寝たきり、全く動くことさえもできなかったが、その頃毎夜誰かが必ず見舞いに来て慰めてくれた。

 ある晩、進さんやOさんや岡田さんが見舞いに来てくれ、四方山話から又恐ろしかった騒擾の話に変わって、遂にS組合に転勤した洪君の話に移った。私は床に横たわったまま、
「洪君は何だか今度の騒擾事件に加わったような気がして心配ですよ。」と言ったら、煙草をふかしていた進さんは、
「今度の騒擾は主として天道教徒だから、耶蘇教信者の洪君には何の関係もない筈だから、無論そんなことはないでしょう。」と頭から私の言葉を否定してしまった。するとOさんは、
「それにあの洪さん、中々考え深い賢い人だから、あんな運動には加わらないでしょう。」と、進さんと同じように洪君を弁護した。
「しかしOさん、人間という奴は、一寸した機会に魔がさすと、とんでもないことをするものですからねぇ。私が負傷した時、公医さんの所で偶然出会った組合員の崔さんのことを考えてごらんなさい・・・。」
「ほんとうにねぇ。」
「あれでも警戒の時、随分探して、出会ったらよく説明しようと思っていたのに、とうとう巡り会うことができないで、あんなことになってしまったものね・・・。」
「全くあの人の好い崔さんが、あんなことになったのも、所謂魔がさしたのかもしれませんね。」と私とOさんとが話していると、今度は岡田さんが、
「しかし洪さんに限って、そんな心配は毛頭ないでしょう。」と言って茶を啜った。
「しかし私は先日から何だか洪君のことが思い出されて、もしやと思って心配しているのです。」と私は答えた。

 それから洪君や崔さんの話が絶えなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 3

 元山の丸金旅館に着いた妻は、車留基さんから手紙と朝鮮服を受け取って、その翌朝早く起き、女中に手伝ってもらって朝鮮式に髪を結い直し、その上を絹地の布で結び、朝鮮服に着替えて、すっかり朝鮮婦人に変装してしまった。

 折しも前夜から降りだした雪は、朝になってから一層激しく降りしきって、大地には既に七八寸も降り積んでいた。

 車留基さんは馬を頼んでみたが、陽徳では五十円くれてもいやだと断られたので、止むを得ず妻は車留基さんに荷物を持ってもらって、宿屋で準備してもらった二日分の食料として食パンやカステラ等を風呂敷に包み、慣れぬ朝鮮皮鞋を穿きしめて、降りしく雪の中を、飽くまで朝鮮婦人になりすまし、命を的に若い女の身空で、二十二里の険阻な山路を越えて、二日目の午後四時に無事車留基さんと共に到着したが、その途中 道を歩いて雪に道を失ったり、脅迫されたりしたが、飽くまで車留基さんの妻になりすまし、危うく切り抜けたかと思うと、また今度は警戒の憲兵から、本当の朝鮮婦人と認められ、この大雪に女の身で旅行しているのは、確かに扇動のため田舎に入り込んでいるに違いないと怪しまれ、危うく検束されんとして電話で照会され、漸くそれとわかって解放されたりしたが、全く生きた心地はしなかったと、流石に女心の恐ろしさに身を震わせながら、途中の様子をこまごまと話して聞かせた。
  
 それ以来、妻が専心看護に当ったので、傷口は毎日薄紙を剥ぐが如く、捗々しくはなかったがだんだんと肉が上がってきたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 2

 負傷した私はその当時まだ独身であったので、これより先の私の看護については、邑内の人々は少なからず心を悩ました。それは全く身動きもできない重傷であるのに、専属して看護する者がなかったからである。その当時はまだ男子は警備その他連絡のために日夜奔走し、婦人方は夫々皆幼き子供を抱えた者ばかりで、人手不足な避境の地では、全くどうすることもできなかった。

それで平壌に出て入院するとしても、この場合途中暴徒の危険があるのみならず、三十八里の山坂道を自動車でかっ飛ばすには、あまりに私の身骨は重態であった。それにまだ傷口も癒えていないので、絶対安静を要するというので全く困り果てた。

 そこで私が負傷してから五日目に、邑内の人々が協議して元山に看護婦の派遣方を交渉したが、既に当地の状況を新聞で見ていた看護婦達は、例え日給十円でも二十円でも、途中も危険だし、それに生命には換えられないといって、誰も応じてくれる者がなかった。

 茲に万策尽きて、更に邑内の人々と協議した結果、かねて私が知っていた現在の妻に京城から来てもらうことになった。それが奇縁で彼女と遂に結婚したことも、私にとっては誠に奇しき因縁であった。

 その時私は危険の域を脱したというにすぎない状態にあったので、邑内の人々は協議の上、彼女に、
「十二日元山に着け、当方から迎えに行く」と電報を打って、Oさんが使っていた試作場の常庸人夫である車留基さんに、金郡守夫人の朝鮮服一切を借りて、それを元山に持たせて、朝鮮婦人に変装させて連れてくることになった。

 まだその頃は中々不穏な状態で、T分遣所長がハバロスクに出動するために元山に出るのさえも、五名の憲兵や補助員に護衛されて行ったくらいだから、若い女の身で果たして無事に着くことができるであろうか、或いは途中で変装を見破られて非業の最期を遂げはせぬであろうかなどと、邑内の人々もいろいろと案じてくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 1

 私が負傷してから丁度一週間目に、T分遣所長は突如シベリヤのハバロスクに出動命令がきたので、急遽準備を整えて出発することになった。

 その朝分遣所長は軍服を着て、挨拶のために、ささやかな私の庵を訪ねてくれた。そして私の居間に上がってきて、仰向けに寝ている私の姿を見て、
「理事さん・・・」と、こう言った分遣所長の両目には涙が光った。
「貴方には、今回の騒擾事件については、最初よりいろいろとご尽力にあずかりました。その上に貫通銃創まで蒙られたことにつきましては、私は分遣所長として満腔の熱誠を以って同情と感謝の意を表するのであります。それにまだ貴方の痛々しい負傷の全快しない中に、突如私は予て出願していたハバロスクに急遽出動せよとの命令に接しました。何事も宿命です。この上はどうか専心療養され、一日も早くのご快癒を祈ります。」と改まって挨拶を述べたが、分遣所長は更に私の傍らに進み寄り、手を堅く握ってハラハラと涙をこぼした。
 さなきだに負傷のために感傷的になっている私は、思わず不覚の涙にかきくれた。やがて分遣所長は立ち上がって、
「それでは随分お大切に・・・何れあちらへ着いたら詳しい手紙を差し上げます。」と言って最後の敬礼をして、ハンカチで目を拭いながら出て行った。 
 私はただ床の中から目送したが、胸が一ぱいになって、何も言うことができなかった。

 まだその当時は、次から次へと騒擾が波及して、各地に不穏の空気が漲っていたので、分遣所長夫妻は憲兵三名と補助員二名に護衛されて、途中馬息嶺の険を攀じ越えて、馬転洞に一泊して翌日辛うじて元山に着いたのであった。

2010年5月15日土曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 3

 そこで私は三月四日に、T分遣所長の慌ただしい来訪をうけ意外なことを聞かされたことや、在留民の協議会の顛末や、その夜憲兵隊に全員引き揚げて、一同が協力して警備に就いたことや、翌日三月五日午前九時に、数百名の暴徒が潮の如く襲撃殺到して来たので、私は大声を挙げて、「ツロオヂマラ(はいってはいけない はいってはいけない
)」と叫んで、これを制止したが、遂に及ばず、絶体絶命となったその刹那のことや、遂に貫通銃創を蒙ったことを詳しく話した。 

 その間進さんとOさんとは、熱心に私の陳述を聞いていたが、時々興奮したような面持ちで私の顔を見つめた。そしてN検事は、
「証人は本件に関しては、もう言うことはないか。」と又私の顔をまじまじと見つめた。私は、
「この上、別に申し上げることはありませんが、あの際私共のとった方法は誠にやむをえない、機宜に適したことであるということを付け加えておきます。」と答えた。

 N検事の傍らに跼んで、縁先で筆記していた書記は、その調書を私の前に差し出した。すると又検事は、
「よく見て、それに相違なければ、署名捺印しなさい。」と言った。私は一通り目を通した後、Oさんが墨をつけて差し出してくれた筆を受け取って、ベットに横たわったまま署名して、静かに捺印した。

 それが済むと、N検事も随行の書記も、靴を脱いで上がってきた。そしてN検事は全く一私人となって、
「理事さん、本当にご苦労でしたねえ。負傷は如何ですか?」と、親切に私の労をねぎらってくれた。そしていろいろと雑談の後、N検事は今からまた郡守の所に行くと言って、丁寧に挨拶して立ち去った。

 それから私は進さんとOさんと三人で、尋問された事柄や一私人としてのN検事の言葉をいろいろに味わってみた。

 折から戸外は、綿を千切って落とすように春の雪が降っては消え、消えてはまた降っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 2

 家に帰ってからの私の看護やその他万端の世話については、主として進さん夫妻と郡庁のOさんとが当ってくれることになった。

 丁度その日から、私の容態は幾分よくなって、漸く危険の域を脱することができた。

 大邱の法院から、応援のため出張してきたN検事は、私共が憲兵隊を引き揚げて家に帰ると、今まで引致されていた二百余名の取調べを開始した。九日には証人として、責任者たるT分遣隊長と郡守と、それに私とが取り調べられることになった。

 その日の午後一時頃になると、N検事は一名の書記を従えて、私に名刺を差し出して、私を今回の事件の証人として、臨床尋問する旨を厳かな態度で伝えた。

 折からそこへ看護に来ていた進さんとOさんとは、はたして私がどんな陳述をするか、またN検事が如何なる取調べをするかと、心配らしい顔をして、N検事に礼をしたまま黙って聞いていた。

 N検事は正服を着て玄関に突っ立ったまま、形の如く私の住所、職業、氏名、年令を聞き、更に何年何月何日に当地に赴任したか、また赴任以来理事の職にあったかと聞かれたから、私はそれに対して簡単に答えた。するとN検事は、
「証人は、今回の騒擾事件に負傷したというが、はたして事実か?」
「ハイ、この通り貫通銃創を蒙ったことは、事実であります。」と私は血の滲み出た包帯を示した。
「然らば証人は、本件について負傷するに至った事実を詳細に申し立てよ。」と更にN検事は私の顔を見つめた。

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 1

 三月六日の朝兵隊が到着してからは、地方人は主として憲兵隊内の仕事を助け、憲兵と兵士とは積極的に外部の偵察並に警備についた。

 私の負傷の容態は一進一退で、全く生死の境を彷徨っていた。六日の西鮮日報や京日や大朝や大毎には、早くも「陽徳金融組合理事重傷を負えり」と見出しを掲げて報道されたので、各地の友人知己からは、見舞いや照会の電報が頻頻と届いて、忽ち六十余通に達したが、私の容態は一喜一憂で、既に負傷以来四日を経過したが、ただ仰向けに寝たばかりで身動きさえもできなかった。

 粥の世話や大小便の始末は、主として進さんの奥さんが面倒を見てくれたが、私はこうした状態が何時まで続くことかと思うと、奥さんに対して本当にすまないと心を痛めた。

 それから間もなく邑内の付近一帯が静穏に帰したので、兵士に休養を与えるために、憲兵隊の宿舎を空けることになって、地方人は八日にそれぞれ自分の住宅に帰っていった。 
 私もその日の午後に、嘗て乗せられた担架に乗って、再び、灰かぐらを立てた我が家に帰ることができたが、誠に悲しい嬉しさであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 5

 こうして恐ろしい不安の一夜が過ぎて、四方の山々が紫色に明けると、まもなく自動車の爆音が勇ましく響いて、応援の平壌連隊の兵士がS少尉に引率されて、十二名来着した。

 憲兵隊の庭内では、死のドン底に突き落とされて、刻一刻と死期を待つがごとき心持ちを抱いて、ただ兵士の到着を待ちに待ちたる人々によって、万歳が高唱された。一同は相擁して感激に咽び泣いた。

 進さんは慌ただしく私の室に駆け込んで、
「重松さん、もう大丈夫だ。兵隊が来た。」と大きな声で言ったが、両目には涙が光っていた。

 私は床に横たわったまま負傷の苦悩もうち忘れて、思わず万歳と叫んだ。涙が止めどもなく溢れ出た。

 不安な一夜を一睡だにもせず、看護に力を尽くしてくれたE夫人もN夫人も、腰の弁当を投げ捨てて感激のあまり相抱いて声をたてて泣いた。

 温突の障子には、早春の柔らかい春の陽ざしが、漸く差し込んできた。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 4

 宵から一睡もしないで看護に付き切ってくれたE夫人はN夫人に向って、
「奥さん、今もし暴徒が襲撃してきたらどうしますか?」と聞いた。するとN夫人は緊張した面持ちで、
「理事さんはこの通りの重傷で歩くこともできないし、それかといって女の身で私達が背負って、他に非難することは尚更できませんわね。だから気の毒でも、蒲団にくるんだままこの押入れの中に一時匿しておいて、私達は灯りを消して、兵隊が来るまで裏山に避難していましょう。」と答えた。すると今度はE夫人が、
「本当に重松さんは痛ましくても、この場合それより他に仕方がないですわね。それにしても食べ物だけは準備しておきましょうね。」と言って二人の奥さんは、握り飯をハンカチに包んで、それぞれ帯に結び付けて、いざという時の準備をしていた。

 二人の奥さんの会話を耳にして、私は今に押入れの中に入れられるであろうが、もしそれを暴徒にでも発見されたらどうなるだろうかと、何だか情けなくてたまらなかった。

 そしてこの非常の場合に、どうせ死すべき私のために、貴重な人手を割くことを本意なく思って、帽子掛けにかけてあった私の血に染まった挙銃を見て、幾度か自殺をしようと思ったが、足が立たないのでどうしても挙銃を取ることができなかった。もしその時、私の足がた立っていたなら、恐らく自殺していたに違いない。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 3

 夜の十時頃には、更に熱が四十度二分まで昇騰した。
私は熱に浮かされて、
「しまった。やられた。崔さん・・・・・」などと、時折うわ言を言って看護についていた婦人達を驚かせた。

 夜警の人々は時折外から小さな声で私を呼んで、様子を聞いたり、慰めてくれたりしたが、十二時頃には私の容態が愈々危篤になったので、分遣所長は進さんと立会って私の枕元に座った。そして進さんは、
「重松さん、きついですか?」と訊ねた。私は僅かに頷いた。するとT分遣所長は万年筆に手帳を取り出して、
「理事さん、言い遺すことはないかね。」と私の顔を覗き込んで暗然とした。私は自分でも、これではとても助からないと観念していたので、
「別に何もないが、ただ組合の事をよろしく・・・。」と言ったら進さんは、
「重松さん、確りしなさい。どうにか今宵一夜が明ければ、明日の朝は必ず兵隊が自動車で到着することになっているからね。」と励ましてくれた。丁度その時外からK上等兵が駆けつけて来て、
「所長殿、ただ今十数名の怪しい人影が、正門の方に近づいてきました。」と早口で言った。所長は、
「何ッ!」と立ち上がって奥さんの方を見て、
「それでは奥さん、重松さんをよろしく頼みます。」と言って進さんと二人で、急いで出て行った。

 それから私はだんだん昏睡状態に陥ったが、谷間のせせらぎから取ってきてくれた氷を氷嚢に入れて、絶えず冷やしてくれたその効果が漸くほのみえて、午前四時頃には熱が三十八度五分に降下し、意識が幾分はっきりしてきたので、私は静かに目を閉じたまま黙想していた。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 2

 その日の夕方から、負傷した私の右足は、爪先から腰にかけて紫色に鬱血し、皮が張り裂けんばかりに腫れあがった。そして大腿部の神経が弾丸のために切断されたので、益々痛みは激しくなり、その上に熱は三十九度までも上がった。
 
 午後八時頃、正服にゲートルを巻いた進さんが、静かに私の様子を見に入ってきて、
「重松さん、痛みはどうですか?」と聞きながらポケットから二通の電報を取り出した。
二通とも官報で、一つは冨永第二部長(今は故人となられた富永平北警察部長)で、他の一つは関田理財課長(現朝鮮金融組合協会常務理事)よりきたものであった。
「メイヨノゴフショウ二タイシフカクドウジョウス トミナガ」
「メイヨノゴフショウ ハヤクゴカイユヲイノル セキタ」
と進さんは私に読んで聞かせてくれた。私は、
「有難う。もう道庁に報告してくれたのですね。」と言って、部長や課長のご厚意を心から感謝した。進さんは、
「ええ、今日午後の二時頃に、漸くその要領だけは電話で知らせておいたのです。とにかく今夜が一番危険て゜すよ。」と言って私の額に手を当ててみて、
「これは中々熱が高いが苦しいですか?」と心配そうに言った。
そこへ公医がOさんに導かれて診にきた。 
包帯の上に血が滲み出ているのを見ると、
「出血は大分止まったようですが、足が大変腫れましたね。」と言いながら包帯を巻き換えて、静かに私の脇に検温器を差し挟んだ。やや暫くして進さんが、
「こんなに腫れていても大丈夫ですか?」と聞くと、公医は差し込んだ検温器を取り、ランプの灯りに透してみて、一寸首をかしげて、
「大分熱が高いから心配ですよ。今三十九度八分あります。まァこの鬱血が化膿しなければいいですが、もし化膿でもすれば大腿部から切断しなければなりません。それで私は最初から随分厳重に消毒しているのですが・・・ 多分大丈夫でしょう。」と言って公医は帰っていった。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 1

 屠(ほふ)られた豚の生血で染め抜いたような三月五日の赤い夕日が高原地帯に下らんとして、西天一帯琥珀色に黄金色となり、更に真紅色を呈してきた。釣瓶落としに夕日が沈めば、忽ち暗黒が四方から迫ってきて、何時しか空には点々と碧寶石を鏤(ちりば)めたように無数の星が瞬いて、俄かに寒気を感じるのであった。

 その夜の邑内には流言蜚語が盛んに行われて、内地人は極度の不安に襲われた。そして女性や子供を除いた男子は、悉く奮起して警備に就いた。正門と裏門には夜もすがら篝火(かがりび)を焚いたが、それが突兀たる山岳に映じて、物凄くも亦壮烈であった。

 私は宿直室では危険であるというので、憲兵隊の宿舎に移されたが、宿舎の中央には、小さく燈火が点ぜられたが、入口や窓には毛布を二枚も三枚も重ねて吊って、絶対に外部に光線が洩れないように設備した。そして私共の周囲には、若し万一外部から射撃されても、弾丸が通らぬように書類を積み重ねた。

2010年4月28日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 12

 私は包帯姿の崔さんを眺め、自分の負傷を打ち見守って、胸も張り裂けんばかりであった。
 その時担架を担ぎ上げた民雇は、何の遠慮もなく、ずんずんと診察室から運び出した。頭に包帯をした崔さんは、よろめきながら玄関まで出て来たがただ無言のまま突っ立って、目に涙を一杯溜めていた。そして私の担架が公医の門を出ようとすると、
「理事さァん! アイゴ!」と崔さんの慓えた声が悲しく聞こえた。私は、全く心臓でも抉られるような思いがした。

 先刻民雇に担架を下ろされ逃げられた桑畑に来た時には、もう崔さんの悲しい声は聞こえなかった。私は担架の上で、毛布を被ったまま戦死した分隊長や、頭を包帯していた組合員の崔さんに対するいろいろの記憶を辿って、全く夢のような気持ちになってしまった。

 担架の側に付き添っていた進さんは、歩きながらソーッと毛布を開けてみて、
「ああ、また血が包帯に沁み出たですねぇ。」と言った。
Oさんも亦、
「それに何だか顔色も、前より幾分悪くなったようですねぇ。」と心配そうに進さんの顔を見た。
「なるべく静かに、担架の揺れないように歩け。」と今度は後ろについていた上等兵が、民雇を窘(たしな)めるように言ったが、私はもう夢か現か全くわからなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 11

公医は傷の消毒が済むと、また薬をつけたガーゼを傷口からグングン押し込んで、その上を固く固く包帯して、
「これで出血が止まってくれればよいが、もし止まらなければそれこそ大変です。」と進さんに言った。

 ここで三十分位治療を受けて、再び私は担架に乗せられ診療室を出ようとしたその時、今まで堅く閉まっていた隣室の襖が不意に一尺ばかりスーッッと引き開けられた。それが全く不意であったので、人々は電気にうたれたように緊張して、皆一斉に襖の開いた隣室に視線を注いだ。

 私も担架に乗せられたまま思わず襖の開いた方を注目すると、其処には頭に包帯した一人の老人が座って此方を向いて何者かを探し求めていた。そして担架の私に目を注いで、二人の視線がハタと合ったとき、私は実に、実に大きなショックを受けた・・・。それが前夜以来、私が心配して探し回っていた天道教信者である組合員の崔さんであったのだ。私は全く夢中で、
「おお 崔さん!」と叫んだ。
「アイゴー、理事さん!」と崔さんも肺肝から声を絞って私を呼んだ。

 天道教信徒の崔さんは、とうとう私に巡り会わないで、この運動に参加して、遂に負傷してしまった。それが赴任以来最も親しくしていた組合員の崔さんであっただけに、私の驚きと悲しみとは一入であった。そして今ここで図らずも傷ついた二人が互いに巡り会って深い感慨に打たれたことは、まことに不思議な因縁といわねばならなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 10

 高橋さん夫妻は三月三日に、初めて郷里仙台から畜産組合の技手として遥々赴任してきて、引継ぎの真最中に今回の騒擾に会い、前任者も亦赴任も出来ず引継ぎも出来ず、そのまま二人の畜産技手が滞留していたのであった。

 その内地から来たばかりの高橋さんの奥さんが、か弱き女の身で、畑の中を一目散に横切って、公医のうちに粥を持って来てくれたことは、いたく他の人々を驚かせ、また私を感激せしめた。

 そして奥さんは粥をガーゼに泌ませて、それを私の口に含ませてくれたが、渇しきった私はガーゼで潤すくらいでは到底堪えられなかったので、包帯の手伝いをしていた奥さんの手から粥の鍋を奪い取って、口をつけて正にそれを飲まんとした。その瞬間奥さんは慌てて、
「ああ、それをみんな飲んではいけません。」と言って私の手から鍋を取り返そうとしたが、私が放さなかったので、とうとう奥さんは鍋をひっくり返して、タオルで素早く拭き取ってしまった。そして奥さんは、
「ああ、驚いた! これを全部飲まれたら、それこそ出血して、ほんとうに取り返しのつかぬ事になるところでした。まァよかった・・・。」と言ってホッとしたようだった。
「戦争などでも、負傷して出血すると非常に渇するものですよ。そしてその時に水でも沢山飲ませようものなら、皆バタバタ斃れてしまいます。本当に危ないところでしたね。」とS上等兵は空になった粥の小鍋をうち眺めた。

 私はいくら渇したって、鍋まで奪い取って飲もうとした自分を浅ましく思った。渇し切っていたので、全く無意識に手が出たのであったが、もしその時奥さんにそのような心得がなく、私の飲むがままに任せていたら、恐らく私は斃れていたに違いない。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 9

 進さんは歩きながら、ソーッと毛布をあけて私の顔をのぞいて、
「重松さん、今少しだ。しっかりしなけりゃいけない。」と励ましてくれたが、私は進さんの顔を見上げて、ただ頷いた。すると進さんはまた元のように静かに毛布を着せた。

 硬く凍った小さな細道をドカドカと担架を運んで公医の所に着いた。すると待ち構えていた公医は、
「どうぞ、こちらへ。」と一室の温突に導いた。
担架が玄関の前で下ろされると、進さんとOさんとは、私を毛布にくるんだまま抱えて静かに温突に下ろした。公医は縁側に突っ立っていたが、私の乗ってきた担架の血を見て、
「おや、これは大変な出血だが、理事さんは気力がありますか?」と進さんに聞いた。私は自分で顔の毛布を押しのけて、
「公医さん、大丈夫ですよ。」と僅かに答えた。辺りを見回すと、公医の庭先の植込みには、頭髪を刈った天道教徒が十五六人ほど右往左往していたが、何れも見知らぬ者ばかりであった。そして隣りの室からは、何人かの苦悩に呻吟している声が聞こえてきた。それは勿論今回の騒擾に負傷した暴徒の一味で、庭先にいるのは彼等の友人知己であった。

 そんな具合で公医のうちは、まるで野戦病院のようであった。進さんとOさんは私の看護に付き添い、K、Sの両憲兵は私共の身辺を警戒保護の任務に当った。公医はキラキラ光ったニッケル製の治療箱と、何本かの薬品の瓶を持って私の側に来た。そして真紅に染まった血の包帯をグルグルと解きはじめたので、私は、
「公医さん、隣室の負傷者の治療は皆済みましたか?」と聞いた。公医は、
「今全部済んだところです。」と軽く頷いて、ズンズンと包帯を解いていった。

 私はそれを聞いて、この場合何とも言われぬ心の安らかさを感じたのであった。包帯を解いてしまうと公医は手早く、私にベットリとくっついている血糊を脱脂綿で拭いとって、じっと傷口を見つめていたが、やがて大きな丸い帽子瓶の中から、ピンセットで長いガーゼを挟み出して、アルコールに浸けると、それを前後の傷口にグングンと差し込んで引き出す。今度はまた別のガーゼをヨヂムの中に浸して、同じように両方の傷口に押し込んだが、私はピリピリと沁みて、肉を焼きつけられるような痛みを感じた。今までに夥(おびただ)しき出血のために、私は頻りに渇きをおぼえてきた。その時丁度、高橋獣医の奥さんが、女の身で憲兵隊の官舎から、単身で粥を小鍋に入れて持って来てくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 8

 担架の上は鮮血で血の海のようになった。腰から背にかけて、ヌルヌルと血糊がくっついたが、私自身ではそれをどうすることもできなかった。ただ、目を閉じて静かに来るべき運命を待つより他に仕方がなかった。その時丁度私が運ばれてきた反対の方向から、
「おお、あれだあれだ。あんな桑畑に担架を下ろしている。」という声が聞えた。
それは正しく進さんの声であった。
私は絶望のドン底から救われたような気がした。
「担架を置いて民雇は一体何処へ行ったのでしょう。」と言ったのは確かにOさんの声であった。
「おお、あそこの黍垣のすそに跼んでいるのは、あれは民雇だ。」とK上等兵の声がすると今度は、
「おい、民雇、オラーオラー(来い来い)。」とS上等兵が大声で叫んだ。そして四人で私の担架の側に駆けつけると、進さんは私が頭から被っていた毛布をあけてみて、
「これは大変な出血だ。早く連れて行かねば斃れてしまうかもしれない。」と言って民雇を呼びつけた。黍垣の根に身を潜めていた民雇は、先刻の慌ただしい足音をてっきり暴徒の一隊だと思って、地に這いつくばるようにして跼んでいたが、護衛の人たちであったので嬉しそうに走ってきて、慄(おのの)きながら、
「アイゴー、恐ろしかった。」と言って担架を担ぎ上げた。

 それを四人で前後左右を護衛して、公医の家にと急いだ。担架の横に付き添っていた上等兵は、
「君たちは我々の準備ができるまで、なぜ待っていなかったのだ。そして何処を探しても見つからなかったが、一体どちらの道を通ってきたのか?」と言葉鋭く聞いた。
「ヨンガミさんが直ぐ来ると思って、裏門から近道を通ってきたのです。」と一人の民雇が答えた。すると今度はS上等兵が、
「なぜあんなところに担架を下ろしたのか?」と質問した。
「本通りの酒幕の前に差しかかると、中から暴徒が、「待てッ、止まれッ」と怒鳴ったので、恐ろしくて夢中でその前を駆け抜けて、桑畑の中に逃げ込んだが、後から何だか暴徒が追っかけてくるような気がしたから、担架をそこへ下ろして、向こうの黍垣の陰に隠れていたのです。」と又一人の民雇が弁解するように答えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 7

 本通りは尚右往左往している暴徒の足音が聞こえていたが、私を護衛する者はまだ追いついてこない。そのうちに町角の酒幕の前に差し掛かると、その中から、
「おい、待てッ! 止まれッ!」と大声で怒鳴った者があった。それはもちろん酒幕で酒をあふっていた暴徒の一味であった。
 民雇はただ恐ろしさに黙って担架を担いだまま暫く小走りに駆けって、投げるように担架を下ろすと、自分達はバタバタと何処かへ隠れてしまった。

 担架を下ろされた私は、血に染まった足の先が、冷たく凍った大地に触れてヒヤリとしたので、顔の毛布を押しのけて目を開けてみると、大空には漠々たる浮雲が流れて、午後の陽射しが冷たくぼんやりと輝いていた。直ぐ目の上には葉のない桑が枯れ木のようにつっ立っていたので、それが桑園であることが分かった。桑園の向こうの破れかかった黍垣のすそには、二人の民雇が真っ青な顔をして小さく跼(せぐくま)んでいた。

 私は今はこれまでと思って、また静かに毛布を被った。その時急に道路に面した側で、ドカドカと慌ただしい足音が聞こえて、それがだんだんと私の方に接近してきた。今まで黍垣に身を潜めていた民雇は「アイゴ!」とふるえた異様な声をたてた。  

 絶えざる出血のため今は全く気力を失った私は、その慌ただしい足音や民雇の異様な声を聞いてただ事ではないと思った。
 暴徒? 護衛? 生? 死? 私は静かに観念の目を閉じたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 6

 それから暫くして、私は左の太股がチクリとしたので目を開くと、枕元に座っていた進さんが、
「重松さん、しっかりしなさい。」と言って私の手の脈をみた。公医さんは私の上に覆いかぶさるようにして、グングンと食塩注射をしていたが、ややあって、私はだんだんと意識を回復して、漸く傷の痛みを感ずるようになった。

 一通りの手当が済むと公医は、ここでは思うように治療ができないから、一応公医の家に連れてくるようにと言って帰った。公医の家は、憲兵隊から数町離れた全く反対の方向で、邑内の中を通り抜けなければならなかった。


 然るに一時退去したる数百名の群衆は、邑内の各所に屯(たむろ)しているので、この際私を公医の所に連れて行くことの可否については、かなり議論があったが、このままにしておけば斃れてしまう危険があるので、遂に決死隊を組織して、私を護衛して行くことになった。その決死隊が進さんとOさんとS、Kの両憲兵上等兵の四人で、私の前後左右を警戒することになった。そして私は俄か作りの戸板の担架に乗せられて、死人のように頭から毛布を被せられた。

 そしてまだ護衛の準備が出来ないうちに、二人の民雇(郡庁の小使)はさっさと担架を担いで、憲兵隊の裏門から急ぎ足に出たが、護衛の人たちは未だ追いついて来る気配はなかった。組合の横を通って邑内の本通りに出ると誰かが、
「アイゴ! 担架から血が落ちている。」と言ったら、また一人が、
「アイゴ! 良い理事さんが死んだ!」と言った。その声は確かに雑貨屋の金奉一さんの声であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 5

 私は公医の「傷は浅い、二週間・・・。」という言葉を聞いてから、非常に安心して、今まで緊張しきっていた精神が一時に緩んできたためか、漸く傷の痛みを感ずるようになった。そして絶えざる出血のために、だんだん顔色が蒼白となったので、公医は極少量の葡萄酒を飲ませて、腰のあたり一面にくっついている鮮血を脱脂綿で拭いとってくれたが、それでも尚両方の傷口からはブクブク、ブクブクと真赤な血が湧き出て止まらなかった。

 公医は傷口を消毒して、ガーゼを何尺か傷口に押し込んだが、なお依然として出血は止まなかった。それに負傷の箇所が大腿部から臀部であるので、血を止める方法がなかった。そこで咄嗟の場合、公医としては唯むやみに、傷口を包帯で縛るより他に方法がないらしかった。

 そして漸く私の仮包帯が済むと、正門の方で、
「逆襲ッ!」と叫んだK上等兵の声が破れ鐘のように響いた。今まで私を取り巻いていた人々は、再び前線に進み出たが、進さんとOさんは、私の看護と護衛のために残ってくれるようにとT分遣所長より話があったが、私は手を振ってこれを遮り、
「いーや、進さんもOさんも、この場合私に構わず前線に出て下さい。早く、早く・・・。」ととぎれとぎれに言った。実際生死の境を彷徨っている私は、素より生をきしていなかった。そしてさなきだに兵力の不足であるこの際、負傷せる私のために進さんとOさんを留めることは、どうしても四囲の事情が許さなかった。進さんは、
「一ッ時だから、この場合しっかりしていて下さい。」と心を後に残しながら、Oさんと前線に走り出た。

 私は唯一人宿直室に残されたが、絶えざる出血のためだんだん意識が朦朧としてきた。折から夢か現(うつつ)か、物凄い喚声が裏山に轟いて、数発の銃声が聞こえた。私は血海の中に全身朱に染まって呻吟していたが、遂に全く意識を失ってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 4

二十分も経つと、韓公医が白い予防服を着て駆けつけ、私を起こして腰のあたりを見ていたが、紺サージのズボンの臀部が、十七形の時計大ほどズタズタに破れて、そこからシュウシュウと噴水のように鮮血が湧き出ているのを見つけ、
「ハハァ、これは射出口ですねぇ。大分傷が大きい。」と呟きながら、
「盲貫でなければよいが・・・。」と言って再び私を仰向けにした。

 私は自分で洋服のズボンを脱ごうとして、右の大腿部をさすってみた。すると右手に生温い血汐がヌルヌルとくっついて、全面の中央部に人差指が入るほどの穴があいているのに気がついた。
「おお、ここもやられている。」と言ったら、韓公医は急いで脱脂綿で血汐を拭いとっていた。それは膝から四寸ばかり上の前面に直径三分位の穴があいて、そこから真紅の血がプツプツと吹き出ていた。
「ははァ、これが射入口ですね。これは前から狙撃されたのですよ。右腿部の前面から右臀部にかけて、約一尺四寸の貫通銃創ですねぇ。」と韓公医は言った。

「公医さん、負傷の程度はどうですか?」と私は公医の顔を見つめた。公医は脱脂綿で、迸(ほとばし)り出る鮮血を拭いながら、
「理事さん、大丈夫、傷は浅い。二週間で全治しますよ。」と言って私を励ましてくれたが、更に分遣所長と進さんとを顧みて、一段声をひそめて、
「実際これは中々重傷ですよ。もし出血が止まらなければ、危険ですね。」と言ったらしかったが、私には充分それが聞き取れなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 3

 私は進さんの背に担がれて、事務室内の宿直室に一先ず収容され、柿色の軍用毛布の上に寝かされたが、泉の如く流るる血汐で、毛布は見る見るうちに真赤に染まってしまった。進さんは、
「重松さん、しっかりし給え。」と言って私の右の手をしっかと握ったが,両の目からは熱い涙がはふり落ちた。Oさんも駆けつけて、
「重松さん、大丈夫だ。しっかりしなさい。」と言って私の血に染まったゲートルを解いて、泉の如く流るる鮮血を拭いながらハラハラと落涙した。
「なァに、これくらい、大丈夫ですよ。」と私は集まってきた人々の顔を見上げた。そこへT分遣所長が皆の中を押し分けて、
「おお、重松君、やられたか。しっかりしてくれ。よくやってくれた。」と言って私の手を固く握って、顔を背けて涙をハラハラと落した。そして尚も、
「君は全く我々のために犠牲になってくれたのだ。君だけを決して殺しはしない。気を確かに持っていてくれ給え。」と言って又手を固く握りしめて、落つる涙を軍服の袖で押し拭った。官舎に非難していた奥さん方も宿直室に詰めかけた。子供を抱いて駆けつけた進さんの奥さんは、
「先刻まで元気であった重松さんが、私達のために働いて負傷した。」と言って子供に顔を押しつけて、よよと泣き伏した。

 そのうちに多数の人々が駆けつけて、私のゲートルを解いたり、上着を脱がせたりしてくれたが、それでも私は唯右足が動かないばかりで、ひとつも重傷を負うているとは思わなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 2

 負傷して倒れている私を見つけた暴徒は、矢庭に棍棒を振って襲ってきたので、私は倒れたまま日本刀を盲滅法に振り回して防御したが、最早その時は、私の生命は風前の燈火同然であった。私は今はこれまでと観念の目を閉じようとした瞬間に、事務所の入口に突っ立って、こちらを睥睨(へいげい)していた進さんを見つけたので私は思わず、
「おい、進さん進さん」と続けさまに叫んだ。進さんは呼ぶ声に、ハッと気がついて、
「おお! やられたか、しっかりせい!」と叫びながら勇敢にも身辺の危険を冒して、私の傍に這い寄って、後ろから私を抱き起こし、耳元で、
「しっかりせい!」と言って私を背に担ぎ、死地から漸く救い出してくれた。その時さしも頑強に襲撃してきた暴徒も漸く退却しはじめたが、騒乱の巷であった憲兵隊の構内はなお凄愴(せいそう)な気分が満ち満ちていた。

かくて暴徒が全部憲兵隊の付近から退却してしまうと、辺りはまた元のしじまに返った。そして唯、構内を整理するために、憲兵や地方人や補助員が相助けて、右往左往する靴音ばかりが聞こえてきた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 1

 充填していた挙銃の弾丸が無くなったので、私は一応憲兵隊の構内に引き下がろうとした。丁度その時私の目の前に、灰色の防寒帽を被った大男が、不意に私の傍に走り寄り、何か突きつけたなァと思った瞬間、大きなゴム製の弾力のある棒で、イヤと言うほど打ち殴られたような気がして、二三歩憲兵隊の構内にたじろいでバッタリ其処に倒れた。
「何ッ くそッ! 今倒れてなるものか。」と気を張って立ち上がったが、また倒れた。そして倒れては起き、起きてはまた倒れたが遂に私は起つことができなかった。

 私の倒れた跡には、点々と鮮血が滴って、右足に巻いていた柿色のゲートルは、真赤に染まった。
「しまった! やられた!」と私は思わず叫んだ。そして進さんから貰った兼氏の日本刀を杖にして立ち上がったが、既に右腿部に負傷していた私は、鮮血淋漓として迸(ほとばし)り、最早一歩も歩むことができなかった。

2010年4月26日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 5

 こうして私は三回目の偵察を終えて、分遣所に帰ってきた。すると夜は何時しかほのぼのと明けそめて、大空の明星がだんだん薄れると、三月五日の陽差しが、裏山の保護林の上を美しく染めた。

 私は更に組合に行って、宿直の書記を起こし、全ての注意を与えて、再び分遣所に帰ってきた。そして婦人方が炊き出してくれた握り飯を食べたが、その時同じく私の側にいて朝ごはんを食べていたK上等兵は腕時計を見て、
「さあ、今が九時だから、そのうち必ず暴徒の一隊が押し寄せてきますよ。」と言った。するとOさんは、
「どの方面から来るでしょうか?」と訊ねた。
「それは五柳洞の方面から、間道を経て来つつある群衆が、先発隊と合同してきますよ。今S上等兵が偵察に出ているから、帰れば必ず動静が分りましょう。」とK上等兵は簡明に言って立ち上がった。食事を終えた私はOさんに、
「Oさん、成川では分隊長がやられたが、お互いも全くどうなるかわからないね、別れの杯だ! その水を一杯汲んでくれ給え。」と言ったら、Oさんは、
「分隊長がやられたって?」と驚きの目を見張りながら、水差しを右手で握って茶碗に注いでくれたので、私もまたOさんの茶碗に一杯注(つ)いだ。二人は無言のまま飲み干して、その茶碗を机の上に置くと同時に、偵察に出ていたS上等兵が宙を飛んで正門から走り込んだ。そして庭内で警笛をピーピーと吹き鳴らすと声を限りに、
「暴徒来襲!」と叫んだ。

 すると忽ち一大喊声(かんせい)が山岳に轟き渡った。そして狂いに狂い、猛りに猛った一大群衆は、邑内を疾風の如く真白になって、早くも分遣所の門前に怒涛の如く殺到した。

 すわこそ! と私は正門の第一線に、K上等兵とS上等兵と三人で躍進して、
「入るな、待てッ!」と大声で叫んで、これが鎮撫に努めたが、その先頭部隊は制止を聞かず、門札をはずしてこれを地上に抛(なげう)ち、万歳を連呼して我等の必死の防禦線を突破して、各所に格闘が演じられた。

 私もK上等兵も第一線で、七八人あての屈強なる暴徒に組付かれ、その上千名に余る群衆のために、十重二十重に取り囲まれて、今は全く絶体絶命となってしまったので、私は思わず腰の挙銃を握りしめた。 

 その時暴徒の一隊は、早くも事務室に乱入せんとして、喊声は正に耳を聾(ろう)するばかりであった。
 嗚呼! その刹那! 嗚呼! その刹那!

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 4

 T分遣所長は更に一段と声を落して、
「それからこれは極秘だが、成川の分隊長が四日の朝、挙銃で左足の膝下を狙撃されてとうとう戦死したが、その一味が本部に入込んだらしい形跡があるから、中々油断ができないよ。」と私の顔を見つめた。

「あの分隊長がやられたのですか?」と私は目を見張った。思えば大正七年の一月、私が新任理事として初めて陽徳に赴任するとき、図らずも新任隊長として同じ自動車に乗り合わせたが、私は今その奇縁を思い浮かべて、惻々として哀悼の情に堪えなかった。私は僅かに、
「ほんとうに残念なことをしましたね。」と言ったが、それっきりやや暫らく二人の間に沈黙が続いた。が、T分遣所長は漸く口を開いて、
「然しこれは我々の士気に関することだから、全く極秘だよ。」と言って更に「あるいは僕が分隊の指揮を執らねばならぬかもしれない。」と付け加えた。

 それからまた私はK上等兵とOさんと三人で偵察に出た。路面に堅く凍りついた薄汚い雪の上を踏みしめながら、私は独り頭の中で、こうしてそちこち偵察しているうちに、何処かでひょっこり天道教信者の崔さんに巡り会わないだろうか。もし巡り会ったら、先ず崔さんによく説明して、更に崔さんからその仲間に説明してもらって、事無く解散することができたら何よりも幸せだが、もし万一不幸にして崔さんに巡り会わないで、他の憲兵に引致されるようなことがあったら、ほんとうに崔さんが可哀そうだと思った。そして、ただもう組合員という肉親的な感情から、どうかして崔さんに巡り会いたい、会って話したいと願い、且つ祈りつつ探し歩いた。けれども不幸にしてただ徒(いたずら)に焦慮するばかりであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 3

 私は第一班としてK上等兵とOさんと三人で、邑内の南谷山道路の方面に警戒に出た。夜目にも白く凍った陽徳川に出て橋の袂に佇むと、三町ばかり隔たった路上に、午前三時という深夜にもかかわらず、三十人ばかり集団して密議を凝らしているのを発見した。K上等兵は正面から、私とOさんは左右の側面から接近して、K上等兵は一応身体検査をした。すると各自懐中には、○○○○○を深く蔵していたので、K上等兵は直ちに之を引致した。

 私はOさんとK上等兵を援護しつつ、更に警戒線を巡邏して分遣所に帰ってきた。今度は次の班と交替した。そして私は誰もいない事務室で椅子に凭(もた)れてゲートルを巻き直していると、そこへT分遣所長が電話口からつかつかと私の側に来て低い声で、
「理事さん、本当に有難う。お蔭で電話も先刻から、どうやら不完全ながらも通ずるようになったから安心してくれ給え。そして成川よりの電話によると、今度の騒擾(そうじょう)は天道教徒の独立運動だということが分かったよ。」と言って長靴に縺れた軍刀をガチリャと左手で握り締めた。

「天道教ですか?」と言って私は驚いた。そして天道教信者である組合員誰彼の顔を自分の頭の中に描いてみた。それから最後に、豹を獲った天道教信者の崔さんを思い、錐ででも胸を抉られるような思いがした。そしてどうかあの年取った崔さんがこの運動に加わっていてくれなければいいがと唯そればかりを心密かに念じた。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 2

 郡庁の前を通って組合の横に出たので、私は念のため組合の周囲を廻ってみた。そして小徑伝いに裏門から分遣所に行った。

 分遣所の構内の宿舎には、燈が細く点いて誰かの低い話し声が聞こえていた。事務室の中央には机があるばかりで、その他は全部片づけられてあった。

 T分遣所長は軍帽を被ったまま電話口で、「もしもし、もしもし」と呼び続けていたが、更に応答はないらしかった。私が入っていったのに気がつくと、電話を側にいる補助員に代わらせて、
「いや、理事さん、どうもよく来てくれました。有難う。」と感激に輝く目を見張って、私の手を堅く握った。それから続いて入ってきた進さんやOさんを見て、
「どうも皆さん、有難う。先刻班長から皆さんのご協議の結果を聞いて感謝しております。どうか何分よろしく。このとおり他の所員は皆偵察に出ているような状況です。」と言って三人に椅子をすすめてくれた。そのうち全部顔が揃ったが、何れも皆緊張しきっていた。婦人や子供は皆憲兵隊の官舎に収容して、男子は全部警備につくことになった。そこで地方人と憲兵とを合同して、一斑から三班まで組織して、代わる代わる邑内及びその付近一帯の偵察と警備についたのである。

 そしてT分遣所長は一同に対し、厳然たる態度で、
「茲に各位の応援を得、大いに意を強くすることができたのは、誠に感謝に堪えません。で、この際、我々は絶対に軽挙を慎まねばなりません。而して武器の使用は一定の掟があって絶対非常の場合に限られているのであります。私共は能ふべくんば之を用いずして鎮圧したいと思いますが、愈々絶対絶命となれば、私は全責任を負うて命令を下します。その命令あるまでは、如何なることがあっても、隠忍自重して決して武器を使用してはなりません。それでは皆さん、一致協力してベストを尽くして下さい。」

 T分遣所長は未だ嘗て見たことがないほど緊張していた。そして凛然として顔色自ら決するところがあるものの如く見受けられた。

 そこで憲兵と在留民とは、共同交代して邑の内外四方に警戒線を張ると共に、徒党をして大集団たらしめざるよう、夜陰に乗じて集合し来たるものは、順次に一応之を引致することにした。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 1

 夜半のしじまを破るものは、唯我々の足音ばかりであった。私は進さんの家と棟並びである自分の家を星明りに顧みながら黙々として歩いた。青年会堂の前に来ると、突然闇の中から、
「髜修さん!」と呼びかけた者があった。
 私はギョッとしたが、直ぐそれが灰かぐらをたてたOさんの声であることがわかった。Oさんは茶色の外套を着て、大きな黄楊のステッキを持って私共に追いついて来た。
「進さん、大丈夫でしょうか?」と、Oさんは低い声で聞いた。
「そんなに心配することはないでしょう。然しこの群衆心理というやつは、意外な結果を生むことがありますからね。それに憲兵隊では、補助員を除くと所長と班長と上等兵が四名で、そして地方側が全部で十二名ですから、合計十八名で、その他は婦女子や子供ばかりですからね。」
「・・・・・・・・・・。」
進さんの話に対しては、Oさんは何とも言わなかった。そして何か自分で深く考え込んでいるらしかった。話が途切れるとまた元の静寂に返ってしまった。そして我々が凍った大地を踏みつけるその足音が鬱蒼たる保護林にもの淋しく谺(こだま)するばかりであった。進さんに手を引かれていた坊ちゃんは、思い出したように、
「お父ちゃん、何処へ行くの?」と進さんを見上げるようにして訊ねた。
「憲兵隊に行くのよ。」
「どうして憲兵隊に行くの?」
「みんなが行くことになったから・・・。」と言ったが、父としての進さんは、それ以上その際説明することはできなかったに違いない。坊ちゃんは更に、
「組合のおじさんも行くの?」と一段高い声で私に聞いた。
「ええ、おじさんも、Oさんのおじさんも皆行くのですよ。」と私は答えた。

2010年4月25日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 10

 私は無言のままで、その短刀を受取って、腰に手挟んだ(たばさ)んだ。そして、
「さァ、行きましょう。」と、進さんを促した。進さんは、
「重松さん、住みなれた家も、これが最後となるかもしれませんね。」と、懐かしき我が家を振り返りつつ歩き出した。

 真っ暗な私の家で、柱時計がチーンと一時を報じた。  

 早春三月の夜風は、犇々と肌に迫ってくる。仰げば晴れ渡った大空には無数の星が淋しく瞬いている。  

 時折憲兵の佩剣の音や靴音が聞こえるばかりで、夜更けた邑内は全く湖の底のように静寂であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 9

 私は後に残ったOさんと後片付けをした。その時Oさんはカンカンと熾(おこ)っている火鉢の火が危ないというので、鉄瓶の湯を上からザアザアとぶっかけた。濛々たる灰かぐらが天井に舞い上がり室内に広がった。Oさんは、
「火気があると火災の憂いがあると思ってやったら、エライ事になった。」と、独り言のように言って、その灰かぐらを逃げるようにして支度をするため自分の家にと帰って行った。

 私は直ちに洋服に着替えて、巻脚絆をクルクルと巻いて、護身用の挙銃を腰に吊って門に出た。そして月明かりに門標をはずして内庭に投げ込んだ。するとそれが凍った庭石に当って、カラカラ淋しい空ろな音を立てた。

 隣の進さんを誘いに行くと、進さんは七歳になる長男の手を引いて、奥さんは四つになる長女を背負って出掛けようとするところであった。
「進さん、準備は出来ましたか?」
「準備といったって何もありませんよ。まったく着の身着のままですよ。」と、洋服を着てゲートルを巻いていた進さんは自分の家族を顧た。そして、
「重松さん、貴方とはこうして隣同士に住まって、長い間兄弟のように暮しましたが、愈々お別れする日が来ました。我々は日本人である。死すべき時には潔く死にましょう。今家内には十分言い含めておきました。これは私の家の先祖伝来の兼氏の一振でありますが、まさかの時の用意に貴方に差し上げます。これが要るような事があっては大変ですが、どうか男らしく働いて下さい。」と言って、進さんは黒い袋に包んだ一振の日本刀を私に差し出した。そして尚も、
「我々に万一の事があったら、この無心の子供が全く可哀そうですね。」と、進さんは暗然として、坊ちゃんの手を堅く握りしめた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 8

 すわこそ! と一同は緊張したが、対策は容易に纏(まとま)らない。そこで、どうしても民衆保護機関たる憲兵隊と連絡を取る必要があるというので、直ちに分遣所長の立会を求めた。然し所長は今指揮を執っているから来られないといって、班長が代理として駆けつけた。そして班長は如何にも沈痛な口調で、
「彼らの行動は、成川の模様を見ると、先ず憲兵隊を襲うて、次に諸官公署を襲うらしい計画であります。然し唯でさえ憲兵が欠員であるところに、先日また国葬警戒のために三名は京城に行って不在であります。斯の如く少数の兵員で、一方に分遣所の防備を為し、また一方に諸官公署並びに在留民の生命財産を完全に保護することは、中々困難であります。それにこの際憲兵を各方面に割くことは、どうしても事情が許しません。軍人である我等は勿論、家族の者も既に死を期して善処しようとしているのでありますから、皆さんも充分御了察を願います。」

 班長の言葉は誠に悲壮であった。Y庶務主任は、
「成川の分隊から憲兵の増派か、若しくは平壌から援兵は願われないのでしょうか?」
「ハイ、それで所長殿は昼間から電話を掛けていますが、今に要領を得ないのであります。」
 班長は僅かに眉を動かした。Y庶務主任は更に一同に向って、
「皆さん、皆さんもご承知のとおり、当地は全く孤立無援の地に等しい僻辺であります。それにまた四囲の状況は既にお聞きのとおりであります。憲兵隊も兵員が少ないのでありますから、この際我等は万全を期する為に、官民一致協力して憲兵隊を援助し、もし殪(たお)るれば共に殪れたいと思います。」  
 悲痛な声は、極度に緊張して底力があった。

 その時またドカドカと慌ただしい靴音が門前で止った。
「班長殿、報告! 群衆の先発隊は、既に当邑より一里余りの地点に迫りつつあり。終りーッ。」
 K上等兵は恐ろしいほど緊張していた。班長は、
「皆さん、あの報告のとおり、危急がだんだん迫ってきましたから、私はこれで失礼します。何分よろしく。」
 と雄々しくも言い捨てて、Y上等兵の後を追うてまた闇に消えた。

「それでは皆さん、直ちに憲兵隊へ。」という声が異口同音に交わされて、各々は準備のために帰宅した。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 7

 郡守の側に座っていたY庶務主任は、両面封紙を折鞄の中から何枚か取り出して、
「皆さんご苦労でした。それでは今回の突発事件に対して善後策を講究したいと思いますから、どうか忌憚なき意見をお述べ下さるようにお願い致します。」と静かに述べ終わったが、室内には重苦しい空気が充満して咳一つする者さえもない。ただ柱時計の時を刻む音が、コチコチと聞こえるばかりであった。

 折から慌ただしい靴音が聞こえたが、やがて私の家の前でハタと止まった。入口に座を占めていたOさんは、私に代わって戸を開けた。すると、
「分遣所長殿より連絡の為報告!」声は低かったが、力が籠っていた。よく見ると厳めしく武装をしたK上等兵であった。そして、
「ただ今当邑を去る五里の地点五柳洞より、暴徒数百部隊を為し邑内襲撃の目的をもって、間道を経て陽徳に向いつつあり。終りーッ!」
K上等兵の姿は、靴音を残して闇の中に掻き消えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 6

 私は家に帰ると、直ぐ襖を外して、日本間と温突とをブッ通しにして、ありったけの火鉢に火を入れて準備をした。

 灯し頃になると、郡庁の技手のOさんが真っ先に来た。そして火鉢の前に落ちるように座って、
「重松さんエライことになったですねえ。私は何にも知らずに出張していて、つい先刻帰ってきて、Y主任から話を聞いてやって来たのですよ。」と、火鉢に手をかざしたが、いつになく印伝の煙草入れを抜こうとしなかった。そこへまた、直ぐ隣の進さんが来たが、何れも心配そうな面持ちであった。Oさんは、
「進さん、一体どうなるのでしょうね。」と眉を顰(ひそ)めて聞いた。進さんだって勿論分ろう筈もないのであるが、こうした場合には相手から何かを求めようとして聞くのが人情である。

「どうなるかって、成川があれだけの酷い騒ぎですからね。それに此処は警備上極めて重要な位置であったから、一昨年の十月まで、一箇中隊の守備隊が駐屯していたのでしょう。それをみても、Oさん大抵想像がつくでしょう。」
「心配ですね。こんな時に守備隊があると安心ですがね。」
「そうですよ。今仮に万一の場合、応援を求めるとしても平壌へは三十八里、元山へは十二里ですからね。」
「元山の方はいくら近くても道外ですから、ソレッと言っても中々容易ではないでしょう。それに平壌から来るにしても、十六里の成川までは自動車が来ても、それから歩けば二十二里もあるから、いくら強行軍をしいても二日は悠にかかりますね。」
「そりゃ、愈々となれば、自動車さえあれば、成川からでも自動車で来られないことはないですけれど、そんな事になったら大変ですよ。」
「大変には違いないがそうなるかもしれませんよ。」
Oさんと進さんの話は段々真剣になってきた。その内に次から次へと詰め掛けて、一人の漏れもなく全員集まった。もちろん全員といったところで内地人としては、郡庁側は両主任に次席一人と技術員三名、それに登記所主任、普通学校長、雑貨屋一、宿屋一、私とも十一名で、それに郡守が加わっていた。郵便局長は通信事務のために来られなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 5

 その頃陽徳に一番早く来る新聞は元山新聞で、二日目には届いた。その他の新聞は、大抵五日または一週間以上かかっていた。それで邑内の人々は、元山新聞を一番早くニュースとして読んでいたのである。
「平壌方面の状況は分かりませんか?」
「全く不明ですよ。隣郡の成川の様子でさえも、それだけしか分からないのですから、それに大事の電話が通じないのですものね。」
「ほんとうに大変な事になりましたね。」

 私達は桑園を通り抜けて本通りに出た。そして二人は肩を並べて大股にずんずんと歩きながら、不安の想像に銘々の思いを走らせた。そして私と進さんが郡庁に行った時は、もう諸官公署の代表者は皆集まっていた。

 庶務主任は私に顛末を一応話してくれということだったので、私は先刻分遣所長と会見した要領を残らず、極めて冷静な態度で話した。すると何れもこの意外突発事件を非常に驚いた。そしてこれからどのようになりゆくことかと、ただ顔を見合わすばかりであった。誰の顔にも、一刻前と変わって、一様に憂色が漂っていた。いろいろと協議の結果、とにかく晩の八時から、中央部に在る私の家に集まって、更に協議をすることにして一応解散した。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 4

 私は事務所に帰って、一通り事務の整理をして、直ちに郡庁に出かけた。郡守宅で郡守と両主任とに会見して、唯今の分遣所長の話を残らず話した。そして善後策を協議するために、諸官公署の代表者に回章を廻して一応郡庁に集まることにした。 
 その間に私は、平素親しくしていた普通学校の進さんに知らせに行った。進さんは教員室で、何か他の先生と頻りに研究していた。私は緊急打ち合わせを要する事があるから、直ちに郡庁に集まるようにと言って進さんを促して出た。

 二人は学校の桑園の間道を急ぎ足に歩いた。半町ばかり来ると進さんは漸く、
「何事かね。」と振り返った。
私は、所長から聞いた通りのことを話した。
「そりゃ一体、何の目的の暴徒だろうね。」進さんも私と同じように疑問を発した。
「私も全く分からないが、昨日の元山新聞を見ると、所々に白地や抹削された箇所があったが、その中に何の意味か分からないのですが、天道教とか独立とか、万歳とかの文字が判読されたが、天道教が何か運動でも起こしたのではないでしょうか?」と私は答えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 3

 二人が組合の植え込みの小松の側まで来ると、T所長は此処ならよかろうといったように立ち止まった。そして、
「理事さん! 大変な事が起こったよ。今朝十時にね、隣郡の成川に俄然暴徒が蜂起して、内鮮人死傷○○○名の見込みだそうだよ。そして・・・」と言いかけている分遣所長の言葉を遮って、
「それはまた、何のための暴徒ですか?」と言葉鋭く聞いた。

 春風駘蕩たる心持を抱いて仕事をしている理事としての私には、全く寝耳に水で、何の目的のための暴徒か全然想像もつかなかった。所長は小松の枝を引っ掴んで、
「それはまだ僕にも分からないのだ。ただ成川分隊からの電話によると、内鮮人死傷○○○名の見込みだ。そして主謀者が途中同志を叫合しつつ、陽徳襲撃に向ったから厳重に注意せよ。とまでは電話が聞き取れたが、それからは時々銃声が聞こゆるばかりで、どうしても電話が通じないのだよ。」
「それは大変な事になりましたねえ。」
 私はその暴動がやがてこの孤立無援の僻邑にも、波及して来るのではなかろうかと不安で堪らなかった。所長は、 
「それでだ。僕は万一に備うるために、各出張所員の非常召集の手配や、兵器の整理や、また分隊との連絡を保たねばならないから、君は直ちに邑内の諸官公署と連絡を取ってくれ給え。何しろ分遣所は憲兵が欠員のところに、また国葬警備のために召集せられたりして、人手が足りなくて困っているのだ。とにかくこんな非常時には、各官署が連絡をとって、できるだけ未然に塞がなくてはならないから、何分よろしく頼むよ。」と言うと、駆け足で憲兵隊に帰って行った。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 2

 私は夕飯後燈下でその日の新聞を広げて見た。すると元山新聞には、悲しい国葬の記事が数欄にわたって掲載されていたが、所々白地のままや或いは抹消された所があった。然し私には何の為に抹消されたのか全く不明であり、想像さえもつかなかった。

 翌四日は、丁度三寒に巡り合わしたのか、朝から陰鬱な暗雲が低迷して、今にも雪が降り出しそうであった。 
事務室で事業計画の編纂に余念がなかった私は、ペンを握ったままガラス戸越しに、見るともなしに組合の後ろにある憲兵隊の方を見ていると、帽子も被らず剣も吊らずに、黒い長靴を履いたT分遣所長が慌ただしく憲兵隊の裏門から走り出た。続いて厳めしく武装したS上等兵とK上等兵が、今度は分遣所長とは全く別の方向に宙を飛ぶように走った。私は「おや! 何か事件が起ったな・」と直感した。すると忽ち分遣所長は、組合のドアを開けて慌ただしく駆け込んだ。そして窓口に二三組合員がいるのに気がついて、直ちに冷静な態度に返った。

「理事さん、一寸話したい事があるから外へ出てくれ給え。」と落ち付いた態度で言ったが、私は先刻からの様子でただ事ではないと思った。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 1

早春の陽は弱く静かに暖かい。太陽が東の保護林の上に高く差し昇ると、今まで灰色に凍っていた路面や裏畑が、じりじりと黒く湿ってくる。全くこの頃の四温日の大地は微笑んでいるようだ。
 隣の破れかかった黍殻の籠に止まっていた鶏が、美しい羽を羽ばたいて朗らか唄った。組合の石畳や郡庁の門前の日向には何処の飼い豚か知らないが、ぞろぞろと沢山の子豚を引き連れてきて、さも気持ちよさそうに枯れ芝の陽に仰向けにひっくり返って腹を干している。まことにこの僻邑にふさわしい平和な情景であった。

 S組合の設立準備委員に任命された洪君が赴任してからは、だんだんと年度末が近づいたので、忙しい月日が続いた。

 三月三日は故李太王殿下の国を挙げての悲しい国葬日であった。そしてこの高原地帯の僻辺ですら、山河は朝より悲しい風が簫々(ショウショウ)と吹き渡った。邑内の家々には一斉に半旗が掲げられて邑人は今日の悲しき国葬を敬弔し、邑内は深い悲しみの幕に包まれた。

2010年4月23日金曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 4

 その頃また奥さんは妊娠して、丁度臨月であった。 
こうして陽徳で成長し、陽徳で家庭をつくった洪君は、故郷は平壌であったが、今は全く陽徳を自分の故郷と思っているようだった。その住み慣れた陽徳を今また、家族を残して単身出発するということは、洪君としては感慨に堪えなかったのも、決して無理はない。

「理事さん、妻は臨月ですから、子供と一緒に残して行きますので、何分宜しく頼みます。この春暖かくなればまた迎えにまいります。」と言って洪君は赤くなった目をこすった。
「随分大事にして働きなさい。家族のことは及ばずながらお世話するから心配しないでね。」と言って私は朝倉理事に宛てた紹介状を渡した。それを洪君は受取ると、マントを着たまま、馬夫が引いてきた馬に乗った。雪は紛紛(ふんぷん)として一層激しく降りだした。

奥さんに抱かれていた子供は、泣き出しそうな顔をして、「アボジイ!」と叫んだ。
洪君は黙って馬上から頷いた。その途端馬はシャンシャンと歩き出した。
奥さんは子供を抱いたまま、降りしきる雪の中に佇んで、洪君を目送しながら何か祈っていた。

 邑はずれの陽徳橋を渡ると、洪君は最後に邑を振り返って、妻子のために雪の馬上に祈りを捧げた。
もう洪君の姿は、降りしきる雪のために見えなくなった。
シャンシャンと鳴っていた馬の鈴も、今はもう全く聞こえなくなってしまった。
私は淡い離愁を抱いて、何時までも雪の中に佇んでいた。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 3

 洪君は学校を卒業して、ほんの十六歳の子供の時に、陽徳組合の第一回目の小山理事に書記として使われて、単身赴任して、それから二十二歳の春まで、この山紫水明の陽徳の自然の懐に抱かれて、極めて平和に、且つ幸せに育まれたのである。

 そして三年ほど前にその出入りしている教会の牧師の娘と結婚した。それ以来組合の書記生活はもちろん、家庭に於いても恵まれた感謝生活を送っていた。

 私が陽徳に赴任する少し前に、男の子が生まれた。洪君夫妻の喜びは一際(ひときわ)だった。そしてその子が生まれたのは、全くこの山の中の平和な陽徳のお陰だといって、その子供を洪陽徳と命名して、朝夕二人は寵愛していたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 2

 洪君の奥さんは、洪君より一つ下の二十一歳で、誠にしとやかな婦人であった。京城の或る女学校を卒業すると、洪君と結婚したが、やはり熱心な耶蘇教信者であった。そして普通、朝鮮婦人のように、他の男を見ると、逃げたり隠れたり、また態と横を向いたりするような態度は少しもしなかった。そして途中で会っても、丁寧に頭を下げた。洪君の奥さんはどこまでも淑やかな夫人であった。

「今くらいの雪なら大丈夫でしょう。とにかく昨日も道庁から電話がかかってきたように、向こうの設立を大変急いでいますからねえ。」と言って、私は洪君の出発を促した。
「とにかく、行ける所まで行きましょう。」と言って、洪君は立ち上がった。奥さんが黙って洪君の黒いマントを差出すと、洪君は黙ってそれを受取った。
温突の障子に雪が吹きつけられる音が聞こえた。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 1

 その年の晩秋から、何回かT部長と照復したが、とうとう頭のいい耶蘇教信者の洪君は、S組合の設立準備委員を命ぜられることとなった。勿論設立の暁はS組合の理事に任命せられ、本道に最初の鮮人理事としての栄誉を担うことになっていたのである。

 S組合の設立は、非常に急を要していたので、洪君は大正八年の新春を迎えると、その新年宴会が済んだ翌日の六日に愈々出発することになった。

 前夜から降りだした雪は朝になってもなお止まなかった。私が洪君の家に行った時は、もう馬の準備ができて前のポプラの樹に繋がれてあった。雪はシンシン降りしきって、その栗毛の朝鮮馬の顔にも背にも沢山積もっていた。馬は時々嘶いて雪を払うためにブルブルと胴震いしていた。
「お早う、洪君準備が出来たかね。」と私は外から声をかけて温突の戸を開けてみると、洪君夫妻は子供を真中に座らせて、東の方を向き何か頻りに祈っていた。二人とも目に涙を一杯溜めていた。私が開けた温突の戸の隙からは、雪がしゅうしゅう吹き込んだ。私は黙って戸を閉めた。
「ハイ、すっかり準備は出来ました。」と言って洪君は私の方に向き直った。
「理事さん、こんなに雪が降っても大丈夫でしょうか。」と洪君の奥さんは、子供を自分の膝の上に抱いて私に尋ねた。そして涙に潤んだ目をそうっと拭いた。

2010年4月22日木曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 5

 弾丸に当らなかった二羽の鵲は飛んで逃げたはずなのに、撃たれた友鵲を見て一度飛び立ったがまた後戻りしてその側に飛んで降りた。そして苦しんでいる友鵲を悼むようにギヤァギヤァ鳴き騒いだ。

 私は何の気なしに撃ちとめたこの鵲の意外な有様を見て、何だか薄気味悪かった。進さんもじっと見ていたが、
「重松さん、僕も鵲を一度撃った経験があるが、実際鵲くらい友情に厚い鳥はないですよ。あの有様を見ても人間以上かもしれませんね。恐らく貴方がそばに行って捕まえても逃げないでしょう。」
「気持ちが悪い鳥ですね。それにああして墓の上に落ちて騒ぐのは。」と言いながら、私は哀韻をもらしている鵲から目を離さなかった。

 撃たれた鵲はだんだん羽ばたきをしなくなって、愈々事切れてしまったらしかったが、友鵲はなお悲しそうに、弔い鳴きを止めなかった。進さんはまた、
「この二羽の鵲は、あの死んだ鵲の死骸がある限り、今夜もここを離れないでしょう。」
「あんな単純な鳥だが、ばかに友情が厚いですねえ。」
「ええ、そうです。この前私が撃ったときも全くこのとおりでしたよ。」
「何だか気味が悪いですねえ、うっちゃらかして帰りましょう。」と言ったが、何だかお互いの人生を暗示でもされるような気がしてならなかった。私が銃を肩にかけて歩き出したら、進さんもまた歩き出した。

 二人は思い思いに、撃たれた鵲の死について考えながら丘を下りたが、なおも墓山では、鵲が友鵲の死を悼み悲しむ声が幽寂な秋の黄昏の空気を震わせていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 4

 崔さんを訪ねていくと、今日は日曜日で天道教の教会へ行って不在であると、崔さんよりも年上の細君が答えた。仕方がないからまた山越えをしてあちこち歩いたが、更に一羽の雉も見つからなかった。二人はもうヘトヘトに疲れてしまった。進さんは、
「今日は貴方と一緒に来たから、一羽も見当たらないのだ。」と言って私に責任を転嫁した。

「崔さんは、今年は沢山雉がいると言ったのにどうしたのでしょう。一羽もいないですねえ。」と言って私は岩に腰を下ろし、ゲートルにくっついている草の実を払った。すると直ぐ向かいの墓山の疎林に、鵲(かささぎ)が三羽止まっていたが、こちらを向いてギヤァギヤァとばかげた声を出して鳴き出した。それを見た瞬間「あの鵲でも撃ってやろう」という衝動が咄嗟に私の胸に浮かんだので、進さんの銃を借りてズドンと一発撃った。すると三羽の中の一羽が土饅頭の墓の上に舞い落ちた。そしてギヤァギヤァといやな声を出して、羽ばたきをしながら断末魔の苦しみに悶えていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 3

 それから二十日ばかり経ったある日曜日であった。私は朝早くから進さんと二人で、崔さんの部落に雉を撃ちにでかけた。進さんは邑内狩猟家の白眉で、出猟すれば必ず二三羽の雉を腰にぶら下げて帰った。偶には一日にノロの二頭も撃ちとめて、邑内の人々を驚かせたりしていたが、私がついて行くときは奇妙に何時も不猟であった。

 二人は小高い丘や大きな山を幾つも越えて、崔さんの部落に出たが、途中では何の獲物もなかった。部落の外れに一軒のささやかな温突家があった。それが天にも地にも唯一軒の崔さんの安息所であった。家の直ぐ裏には、急勾配の山がいまにも崩れかかりそうに迫っている。その山裾から中腹までは石ころばかりの火田で、所々にひょろひょろとした玉蜀黍が、ぽつんぽつんと植わっていた。まるで石の中から生えているようだ。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 2

 ポプラの葉が風もないのに一片散った秋晴れの暖かい午後であった。天道教信者の崔さんが、久方振りに組合に顔を見せた。崔さんは組合に来ると、必ず事務室に入って、私の机の側に来て、吹雪の中で話すような大きな声で、いろいろと頓着なしに話すのだった。
「理事さん、今日は私が裏山の火田に作った玉蜀黍(とうもろこし)が出来たから持って来ました。これは煮ても焼いても中々美味しいですよ。」と言って崔さんは、萩で作った小さな籠を差し出した。その中には三本の玉蜀黍が入れてあったが、何れも皮の先が破れて、赤い鬚がはみ出した下から黄色い小粒の玉蜀黍の実が現れていた。崔さんは、
「今日は別に用事はないが、邑内に来たから訪ねてきました。今年は雉(きじ)が沢山いるから、日曜日にでも撃ちに来なさい。」と言って三本の玉蜀黍を私の机の上に残して帰って行った。三四日前に私が崔さんの部落に出張した時、崔さんは玉蜀黍を焼いてご馳走してくれたが中々美味しかった。それで今日また持ってきてくれたのである。

 私はこの玉蜀黍は、崔さんが焼けつくような石ころばかりの火田で、朝から晩まで真っ黒になって働いた汗の結晶だと思うと、ただこのまま食べてしまうのは何だか済まないような勿体ないような気がしてならなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 1

 大自然は永遠の歩をズンズンと陽徳の山野に運んだ。掘れば血の出るような赤土の山崖には産毛のような緑草が燃え出でて、訪ずるる春風に、李花はひそやかなる喜びをうたい、半島の自然の息づかいはだんだんと鼓動が高まってきた。
 爛春の陽徳は保護林の霞に明けて、孔子廟の李花に暮れ、やがて輝かしい夏に入る。川の流れに釣り糸を垂るる姿も、いつしか消えてしまうと、今度は粛殺として事務所のポプラを渡る風が淋しくなる。

 しんみりと胸に食い入るような虫の声を叢(くさむら)に聞かなくとも、永劫から永劫へと果てしなき旅を流れていく秋風の音を聞かなくとも、世は何時しか秋に入ったことを外気の冷えによって感ぜしめられる。高原の彼方に沈み行く赤い血のような夕日が愈々詩人を泣かしむるようになった。こうして自然の歩みは、更に落莫たる冬に入るのである。
 そして大自然は穢れなき真如の姿を悠久の行路に辿らすのであるが、そのうちにも人間界は、毎日私の机の上に遅れながらも届いてくる新聞紙上に、醜い争闘の記録を書き述べている。ある人はそれを美しいと見、ある人はそれを面白いと見、更に悲しいとみる人もあろう。
 淡い水のような明け暮れが、それでも真面目に平静に、一枚一枚と柱暦がめくられていく。それが陽徳に住む私の人生であった。しかも遠く都の塵を避けて、狼林山脈の中に五百の老若男女が巣くうている邑内に於いても、日々の変遷は繰り返されるのであった。

2010年4月21日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 6

 私がこの自殺の通知状を受取ったのは、三月二十五日で最早手遅れだとは思ったが、一応その手紙を差出して憲兵隊に届け出た。憲兵隊では組合員対理事との関係、出発当時の状況等を詳しく聴取して、直ちに手配をしてくれた。
 二三日すると、元山毎日や京日や朝新の各新聞に、二三段抜きで「身は洋々たる大海へ、陽徳金融理事に宛てたる遺書、元郵便局事務員田井の自殺」という大なる一号活字の見出しをつけて、遺書なども掲げて詳細に一斉に報された。

 それ以来邑内では、田井さんの自殺話でもちきりであった。
 その話が出ると、印伝の煙草入れのOさんは、
「死ぬ死ぬと言うものに、死んだ者がないから、あるいは田井さんも生きているかも知れませんね。」とどこまでも田井さんの生存説を主張していた。
普通学校長の進さんは、
「でも、田井さんは囚水という雅号をつけていたからあるいは水死したかもしれませんよ。こんなことは何でもないようだが、実際妙な因果関係があるものですからねえ。然しそれにしても、船に一つも遺留品が無いというのは、どうも不思議ですねえ。」と推理的に判断して、Oさんのように確定的ではないが、やはり田井さんの生死については、疑問をだいていた。
 直接自殺状を受取った私は、田井さんは今は亡き人のように思われたが、またひょっくり何処かで巡り会うのではないかとも思われた。そしてみすぼらしいアンペラ屋根の牛車、赤い毛布をかむって乗っていた田井さんの姿が目の底に沁み込んで、容易に消えなかった。

 その後田井さんの生死は、全く不明であったが、何ヶ月経っても更に消息がないので、流石に生存説のOさんも、疑問説の進さんも、遂に田井さんの自殺を肯定したらしかった。
 自殺状を受取った私は、静かにこの薄幸な老組合員田井さんの冥福を祈り、且つまた静かに、その生存を祈ったのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 5

 船の方が楽だから、元山からは船に乗ると言っていた田井さんが出発してから六日目であった。洪君は配達された一束の郵便物の中から、私に宛てた田井さんの手紙を見つけ出して、
「ああ、これは元山から出していますね。理事さん、田井さんは無事に着いたようですね。」
と言って横封筒に万年筆で走り書きにした田井さんの手紙を差出した。私は封を切って一息に読み下した。


  拝啓 前略御地在任中は一方ならぬ御世話に相成誠に
   有難奉鳴謝候、陳者小生出発に際しては、御丁重なる
   御餞別にその上、送別句まで頂き、途中明るき気分に
   て旅行を続け申候処、病勢は次第に重る許りにて、誠
   に生き甲斐なき事に御座候、この上病躯を提げて帰国
   するも、歓び迎ふる肉親とても無之、殊に人生既に五
   十を越え居り、此の上病苦に悩みつつ生を貪る心は、
   毛頭これなく、哀れ果敢なき人生と諦めて、茲に自殺
   を決心致し候條、生前特に御親交を賜りし理事様にの
   み、御通知申上候間死後は萬々宜しく御依頼申上候
                               早々不一
    さらば、時は今月今夜 場所は 元山港外
      辞世  古里の花を見ずして眠るかな
          大正七年三月二十二日  田井囚水
      重松理事様


「おお! これはまごうことなき田井さんの筆跡だ。」 
 私は手が戦いて、愕然として色を失った。そして大声をあげて、
「洪君、たた・・・大変だ! これは田井さんの自殺状だよ。」と叫んだ。生まれてから初めて自殺状を受取った私は、もう胸がドキドキするのをどうすることもできなかった。
「ハハァ、田井さんは自殺しましたか。やはり田井さんとしては,辿るべき道を辿りましたね。」と洪君は耶蘇教信者らしいことを言いながら、田井さんの手紙をのぞき込んだ。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 4

 不治の病に罹って田井さんは、世にも淋しい孤独の身で、今また職を失ってしまった。
こうしてあらゆる苦境のどん底に突き落とされながらも尚、俳人囚水としての生活を求めていた。そこに却って田井さんの人格がくっきりと表れて、気高くも亦床しくも思われた。

 田井さんが住み慣れた陽徳をたつときに、私はほんの心ばかりの餞別に送別句として「君行けや古里はいま花盛り」と一句短冊に認めておくったら、田井さんは、「これはどうも有難う。今は全く松山も花盛りでしょう。この句は私にとっては希望に満ちたいい句で、大変気に入りました。」と低い声で幾度か朗吟して喜んでいた。
 
 出発の前日に田井さんは、前任理事の松木さんが転任する時初めて考案して、邑内の人々から多大の賞賛を博した牛車館を作らせた。牛車館というのは、牛車の四隅に小さな柱を立て、アンペラで屋根と周囲を囲ったものであるが、その当時の奥地の転任には無くてはならぬ乗り物として人々から重宝がられていたのである。

 私が邑はずれまで見送りに行くと、田井さんはその牛車館に薄っぺらな蒲団を敷いて、その上に座って痩せた身体を赤い毛布にくるんで、湯たんぽを抱えてつくねんとしていた。少し遅れて組合の洪書記が見送りに来た。外套のポケットに手を入れたまま、
「田井さん、途中随分お大事にね。」と簡単ではあったが、洪君の挨拶には真情が溢れていた。
「・・・・・・・・・・」
 田井さんは目に涙を一杯ためて、黙って頷くばかりであった。 
 やがて牛車が雪の上をきしりだすと、田井さんは漸く、
「ありがとう・・・・・。」と言って何度も頭を下げた。そして牛車が山陰に隠れるころ、耐え切れなくなったのか、蒲団の上に泣き伏したらしかった。
 私も洪君も無言のままで佇んでいた。
「田井さんが行ってしまったから、これで内地人の組合員は愈々二人っきりになりましたね。」 と洪君は私を顧た。
「そうだね。しかし君、田井さんはあの身体で元山まで無事に着くだろうかねえ。」
「元山までは二十二里もあるのですが・・・多分大丈夫でしょう。」
 私は何だか田井さんの旅先が案ぜられてならなかった。
 吹き渡る谷風が、折々牛車のきしりゆく音を送ってきたが、それもだんだん聞こえなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 3

 それから二三日経つと、田井さんは私が貸した検温器と薬に一通の手紙を添えて返してきた。
 その手紙によると、自分の病気はマラリヤではない。胸の病に罹っているので、それで時々悪寒がして熱が出る。悪いこととは知りながら、私は皆さんにあからさまにそれとも言いかねていたが、幸い永らく台湾にいたことがあるから、マラリヤ熱だと人さんに言ってきたが、それが非常に罪悪のように思われて心苦しかった。貴方に対しても同じようにマラリヤと言って、心配をかけたことはまことに申し訳ないが、どうか哀れな独身の病弱者と見逃してもらいたい。ご親切に頂いたマラリヤの薬は、私の病気には不必要だから、このまま手を触れないでお返しする。検温器は十分消毒してくれるよう、また自分はどうしてもこの身体では働けないから、遺憾であったが本日辞職した。それで当分暖かい郷里の松山で保養するために、二三日中に出発するから、組合に預けてある貯金を全払いしてほしいとの意味であった。
 私はこの寄る辺ない老人の涙ぐましい手紙を見、且つ陽徳金融組合という友愛的な感情から、殊更、哀れをもよおした。Oさんは、
「それで初めて、田井さんが年賀状をよこす原因が解りました。まことに心がけのよい人ですねえ。」と、例の印伝の煙草入れをポンと抜いて、銀の煙管を取り出した。

 広い天涯の孤独の身を淋しがる田井さんは、不治の病に悶々の情を消しようもなかった。それを忘れるために、俳聖正岡子規をうんだ郷土松山で幼い時に培われた俳句を、老境に入ってからひねっては、唯一の慰藉としていた。囚水という変わった雅号をつけていたが、作品には中々みるべきものがあった。
 私は時々この可哀想な老組合員の病床を訪れることを忘れなかった。

 辞職したというその日の夕方訪ねて行くと、田井さんは薄暗い温突の床の中からやおら起き上がって、
「理事さん、貴方には手厚いお世話になりましたが、愈々明後日出発します。挨拶に行かれないような身体になってしまったことを悲しく思います。」とおろおろして目を瞬いたが、また気を取り直したか「先刻このような句を一句作ってみました。
「今日よりは世事を忘れて梅見かな」 この句は私が辞表を提出したときの感想です。句の善悪は別として私の気持ちが出ているつもりです。」と笑顔をつくったが、どこかに淋しさが漂っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 2

 田井さんが組合に加入したのは、老後を養うための貯金、即ち養老貯金をするのが目的であった。だから無論貸付については何の交渉もなかった。
 私が郵便局の窓口に行った時、田井さんは、
「私は郵便局の事務員をして、他人には郵便貯金を勧めていますが、実際郵便貯金よりも組合の貯金の方が利息が高くて、計算の条件がいいから、貴方の組合へ預けます。」と言って、それ以来田井さんは毎月必ず給料日になると、封筒の中に幾らかの金を入れて、逓夫に持たせてよこした。

 田井さんは嘗て台湾にいる時、マラリヤに冒されて、それ以来時々発熱して困ると言っていたが、実際身体は痩せて、青白い顔に目も落ちこんで、その中に小さな瞳が輝いていた。そして右の眉の根にあるかなり大きい黒子は、妙に顔全体を淋しく曇らせていた。
 ある日田井さんから、発熱したから一寸検温器を貸してほしいといってきた。私は多分マラリヤの熱だろうと思って、義州をたつとき用意してきたマラリヤの薬を検温器に添えて持たせた。 それから間もなく、郡庁の技手のOさんが遊びに来た。
「田井さんは病気ですか。」
「そう、今発熱したから検温器を貸してほしいと来たが、多分マラリヤでしょう。」
「そうでしょうねえ、時にあの田井さんはねえ、全く外出が嫌いなんですよ。ここに来て、やがて三年になるが、毎年正月には邑内の人にまで年賀状を出して、決して自分で回礼には歩きませんよ。貴方も今年年賀状を貰ったでしょう。実際面白い人ですね。」と言った。
 Oさんは口では面白い人ですねえと言っていたが、内心奇妙だ、大分変わっていると思っているらしかった。そして月給取には聊(いささ)か不似合な煙草入れを腰から抜いて、銀の吸口のついた煙管で煙草をスパスパ吹かせた。Oさんはこの印伝の煙草入れは内地をたつとき、母親から形見に貰ったのだから離さないと言っていたが、実際Oさんは不思議にその煙草入れを離さなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 1

 その頃内地人の組合員は、僅かに三人しかいなかった。
 田井さんはその三人の内の一人で、以前は台湾の、ある田舎の郵便局長までした人だが、三四年前から渡鮮して、今では陽徳郵便局の一事務員として満足して働いている。年は五十三歳だが、若い時に随分苦労をしたとみえて、頭の毛は白髪の方が多かった。妻もなければ子供もない全くの孤独で、国元にも親戚らしい親戚もなく、唯一人の従兄弟が侘しく田井さんの帰りを待っていたが、それも先年の流感に斃(たお)れてしまった。
「凡そ世の中に孤独といっても、私くらい徹底した孤独はないでしょう。」などと言って、田井さんは非常に人生を淋しがっていた。

 そこの局長さんは、田井さんよりまだ二つ年上で、家庭の都合でやはり独身生活をしていた。
 夕方になると、この年老いた二人の独身者が、相対した官舎の縁側で、七輪にバタバタと火を起こして炊いていたが、その様はまことに味気ない浮世に思われた。

2010年4月20日火曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 5

 見物人の中にいた往年の虎狩の勇士、片手の金さんは、
「理事さん、これがこの間の恋の豹の片割れですよ。」と真面目な顔をして言った。
「これは牡ですか牝ですか?」洪君が聞くと、金さんは喰い取られた右の手をブラブラさせながら、左の手を差し伸べて、痛々しい豹の後ろ足を無造作に挙げてみた。そして、
「こいつは牡ですよ。」と言ったが、耶蘇教信者の洪君は何とも答えなかった。

 それから二三日経つと、豹を捕った崔さんが組合に来た。そして予ねて借りていた三十円の購牛資金の元利を返済してしまった。崔さんはこの間捕った豹を売ったのだといって意外な収入をよろこんでいた。
「理事さん、豹のロースは美味しかったですか?。」と崔さんは古い証書を財布に入れながら聞いた。実をいうと私は、あの皮を剥がれた豹のむくろを思い出して、どうしても食べる気になれなかったので、昨日までそのまま味噌漬けにしていたが、郡の産業技手のOさんが、昨日出張先から帰って遊びに来たので、二人で勇を皷して、その味噌漬けの豹のロースをすき焼きにして食べてみたが、中々美味しかった。それを話したら崔さんは安心したらしかった。そして「また捕ったらロースをあげましょう。」と言って帰っていった。

「崔さんは、また恋の牝豹も獲るつもりでしょうか・・・。」と言って洪君は私を顧みた。
 私は何とも答えなかったが、洪君はこの上恋の牝豹までも生け捕ることは、非常な罪悪のように考えているらしかった。弱い早春の日差しが窓越しにラシャ張りの机に流れた。
 またしても教会の鐘がカンカン鳴りだした。
 洪君はペンを握ったまま静かに黙祷した。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 4

 それから二三日たった大雪の朝の事であった。天道教信者の崔さんが、「大豹が捕れたから見物に来なさい。」と知らせてきた。私は崔さんの後ろからついて行ってみた。
 崔さんの友人の家に入ると、そこの内庭にはアンペラが敷かれてある。その上には七尺に余る大豹が、頭の先から尻尾の先まで丸剥ぎにされて、真っ赤な無気味な死体を横たえていた。
 温突の柱には丸剥ぎされた斑点の鮮やかな、生々しい豹皮が吊るされてあった。五六人の朝鮮人が恰も変死人でも見るように、アンペラの上に横たわっている豹のむくろを取り巻いていた。

 崔さんは豹の死骸を指しながら語りだした。その話によると、昨日の朝の大雪に、崔さんは予ねて仕掛けておいた狐罠を見回りに行った。すると木の根にしっかと縛っておいた鎖が切れて、そのあたり一面に猛獣の足跡が残っていた。崔さんは一時は非常に恐怖したが、部落の人々と棍棒を携えて、付近を探していると、直ぐ側の崖下から、山岳を震わすような、ウォーという物凄い唸り声が聞こえたので、人々は縮みあがった。勇を皷して遠巻きにして近寄ってみると、そこには一頭の大豹が足に鎖をつけたまま崖腹に倒れぶら下がって牙を鳴らしていた。

 その豹は狐罠にかかると、死力を尽くして鎖を引き切って、足を罠に挟まれたまま、疎林の中を一足飛びに逃げて行くうち、罠の鎖が木に巻きついて、自ら崖に落ちてぶら下がったのである。
 それでどうしても近づけないので、最初は大きな石を投げつけて、豹が弱ったのをみすませて、崔さんが棍棒を振って撲殺したのである。それを今日邑内に売りに持ってきたのである・・・と、皮を剥がれて目ばかりギョロギョロしている豹のむくろを顧みた。
「理事さん、豹のロースをあげましょう。これは米のとぎ汁に漬けておいて食べると、素晴しく美味しいですよ。」と言って、崔さんは猛獣狩りの名人ででもあるかのように、腰にぶら下げている金具の柄のついた小刀を抜いて、胸の肉をスルスルと剥ぎ取って新聞紙に包んでくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 3

 早春のある朝のことであった。私が出勤すると洪君は私の机の前に来て、
「理事さん、今夜から宿直には小使も泊まるようにして下さい。」と頗る不安な顔をしている。
「どうしてかね・・・。」と私は出勤簿に判を押しながら尋ねた。
洪君は手真似をしながら、昨夜宿直をしていると、夜明け方に裏山で豹がウォーと嘯(うそぶ)いたとおもうと、今度はまた城北里の山でもウォーと豹が唸って、何でも互いに二三回、代わる代わる唸って逃げたらしかったが、それから一寸も眠れなかった。だから今夜から、小使も泊まらせてくれというのであった。
 私も恐ろしい豹の唸り声は聞いたが、まさか人家にまでは出ては来ないだろうと多寡をくっていたが、実際気持ちはよくなかった。

 それから噂が、忽ち邑内に広がって日没後は外出する者さえもなくなった。貯金を持ってきた郡庁の小使は、守備隊が引き揚げて鉄砲の音がしなくなったから、猛獣が出没するようになったのだと窓口で話していた。

 若い時に猛獣狩りをして虎と格闘し、右手を肘の下から喰い取られたという組合員の金さんは、「今頃は豹の交尾期で、裏山で牡が牝豹恋しと嘯いたから、城北里にいた牝が牡豹恋しと吼えたのです。つまり豹の恋ですよ。」と頗る合理的な説明をして聞かせたりした。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 2

 元来私は酒は一滴も飲めないのだが、折角私のために三里の道を持ってきてくれた崔さんの厚意を否むことはできなかった。グッと一杯飲み干すと全く咽喉が焼けつくようであった。崔さんは又ポケットから酒の肴だといって麦粉で作った色駄菓子を七つほどつかみ出した。そして、
「食べなさい。」と言って満足らしい顔をした。
 崔さんはその後よく利息を払いに組合に来た。その度に乏しい中から、幾らかづつの貯金をしていった。

 洪君は高等普通学校の卒業生で、年は若いが中々落ち付いた頭のいい男であった。そして熱心な耶蘇教信者で、滞貸整理などに出張すると、ある時は無暗に組合員に同情して、返済能力のある者に対してまでも回収せずにすごすご帰ってきたりしたこともあった。
 また日曜日には必ず教会に通った。教会の鐘がカンカンカンカンと鳴りだすと、何だか明るい気分になって、引き付けられるように教会に行きたくなるなどと話したりした。
 そして日曜日が市日に当たることが、洪君には一等苦痛らしかった。こんな時には出勤前に教会に行って、それから時間までに組合に出勤していた。組合員も誰も居ない時にこのカンカンが鳴りだすと、洪君はペンを握ったまま事務室でよく黙祷していた。

組合の裏山は保護林で、朝鮮松や落葉松が鬱蒼として繁茂している。その他四方は峨峨たる山岳が重畳(ちょうじょう)として、いずれを見てもT部長の言った京都の東山のようななだらかな山は見当たらなかった。
春になると丈なす白躑躅(つつじ)や、その他いろいろの珍しい高山植物が沢山咲き乱れている。
八月の盛夏というのに裏山では鶯と時鳥(ほととぎす)が一緒に鳴いて、全く高原地帯の別天地を思わせた。勿論蚊などは見たくてもいはしない。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 1

 ストーブの胴腹に木の根っこを小使が押し込むと、それがドンドン燃える。平壌から石炭を買っては、肝心の石炭代より運賃の方がよほど高くなるから、この組合では榾(こち)を焚いているのである。

 その頃の組合の貸付限度は僅かに五十円で、私が引継ぎを受けたときは総貸出高は九千円、総預り金高は六百円位であった。職員は書記が一人に小使が一人、損をするのが当然で、利益があるのは寧ろ不思議なくらいに思っていた。
「俺の組合は今年は損失が僅かに二百円で済んだ。」などと損失の少ないのを以って誇りとしていた。
 今の組合の状況に比べると実に隔世の感がある。

 私が赴任して第一番に会った組合員は崔さんである。崔さんは年は五十足らずで身体は大きかった。四五年前から崔さんは、天道教を信ずるようになって、子供のときから四十余年も伸ばしていた頭髪を惜し気もなく切ってしまい、白髪交じりの頭髪を五分刈りにしている。
「この山の中で頭髪を刈っている人は、皆天道教信者ですよ。」と若い耶蘇教信者の洪君は説明した。

 崔さんは私の前に来て、丁寧に頭を下げた。そして腰に吊るしていた神代に用いたような、黒光りのする徳利を私の机の上に差出した。何事が始まるのかと見ていると、今度はチョッキのポケットから高麗焼のような色の杯を取り出して私につき出した。
「理事さんが代わったというから、挨拶に来ました。この山の中にご苦労です。まァ一杯飲んで下さい。」といって神代の徳利の口にしていた新聞紙の栓をはずした。するときつい朝鮮焼酎のにおいが、プーンと事務室中に広がった。
 一年中山の中で暮している崔さんは、私共の執務に対しては全く無関心らしかった。
「ありかがとう、だが私は酒はちっとも飲めないから。」と笑いながら断ると、
「でも今日は雪が降っていて寒いし、それに態々持ってきたのだから、まぁ一杯。」と言って、崔さんは働き手らしい算盤珠のような節をした指先で、自ら焼酎をその杯になみなみと注いで私に押しつけるように差出した。

2010年4月19日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 6

 邑の入口に長い橋がある。そこで気持ちのいい朝日が昇ってきた。そちらこちらの雪を頂いた藁屋根からは、炊煙が物静かに立ち上っている。馬夫は私を顧て、
「ヨンガムさん、今朝は早いョ。」と言って笑った。
「クロッチ。」と言って私は馬上から雪に埋もれた邑内を眺めた。
 橋の手前に、若いツルマキを着た青年が立っていて、手を挙げて私の馬を止めた。
「失礼ですが、貴方は新任理事さんではありませんか。」と呼びかけた。
「そうです。」と私は頷いた。
 青年は一枚の名刺を差し出して、
「私は書記の洪です。どうぞ宜しくお願いします。実は今朝警察電話で石湯池に聞いてみると、もう暗いうちにお発ちになったとのことで、急いで迎えに参りましたのです。まァとにかく馬から降りてください。」と私を見上げた。
私はこの先まだ数町あるのに、今馬から降りる事をばかばかしく思った。
「然しここに降りても仕方がないから、このまま行こう。」と私は言いながら髭の氷柱をこき捨てた。洪君は当惑したような顔をして、
「実は新任者は、すべて邑内の官民が出迎えをすることになっているのですが、今朝はあまりに早いのでまだその手配が・・・。」と歎願するように言った。
「君、出迎えのためならいいよ。」と私はシャンシャン馬を進めた。
洪君は私に引きずられるようについて来た。
私は馬の上で新任隊長のいかめしい成川入りのことを思い出して、あのように沢山の官民に出迎えられてはたまらない。この若い俺には挨拶は閉口だ、いや閉口するというよりも寧ろ出来ないと言った方が適切かもしれない。偶々馬夫に急き立てられて、こんなに早く来た事を今となっては幸いに思った。
 こうして新任理事の私は、二十二里の山嶽重畳たる山路を越えて、唯一人青年書記の洪君に迎えられて遂に赴任することができた。
 組合の事務室には、ドンドンストーブが燃えていた。
 馬夫はそれから直ぐ引き返していった。
 私は二十二里の間、一度も馬から落されなかったことに満足し、約束の賃金よりも一円奮発すると、馬夫は幾度も頭を下げて、後ろを振り向き振り向き帰っていった。
 取り残された私は、急に淋しさが潮の如くこみ上げてきた。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 5

 その翌日は宿泊する部落の関係上、強行軍を余儀なくされた。強行軍には前の主婦の言葉も守っていられない。まだ薄暗いうちに出発して、昨日の赤馬に乗ったり降りたりして、漸く十二里の道を走破して陽徳邑に二里の手前、石湯池温泉に辿り着いた。もうその時は日がとっぷり暮れていた。ここは内地人も憲兵以外は誰も住んでいない。
 面事務所の前のダラダラ坂を下ると、板屋があって、そこから濛々と湯気がたっている。一寸のぞいてみると、朽ちかかったかなり大きい浴槽に、湯が満々と湛えられている。板戸の隙からは鎌のような寒月が差し込んで、金色の小波がたっている。番人もいなければ浴客もいない。勿論灯もついていなかった。
 私は部長の、所謂箱根の温泉とはこれだなァと思って、月明かりを幸いに、疲れた身体を浴槽に横たえた。すると湯がザァーザァーとこぼれた。
「ヨンガムさん、灯を持って来たョ。」と馬夫が蝋燭を持ってきた。
 天井を仰ぐと、幾筋かの氷柱が垂れ下がっている。それが濛々と立つ湯気のためにとけて、時折身体の上にぽつりぽつりと雫が落ちてくる。その度に私はひやりとさせられた。
 寒月は窓から無心に流れ込んでいる。この太古のような温泉に浸っているうちに、何時の間にか私自身が太古の人のような気分になってしまった。

 ここから陽徳までは僅かに二里だが、馬夫が直ぐその足で別倉まで引き返したいから早く行こうと言うので私を起こした。薄暗いランプを点けて朝飯を食べたが、何を食べたか分からなかった。そしてほのぼのと明けかかった頃、シャンシャンと馬を追い立てて、温泉を出発した。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 4

 その朝、馬夫が朝鮮馬にしてはちと逞しすぎる、毛のぼやけた赤馬を曳いてきた。
「この馬はおとなしいかね。」と聞いたら、
「ネーネー。」と馬夫は答えた。
「落としたら、金は払わないよ。」と言ったが、馬夫は何とも答えなかった。
 出発の際、宿の主婦が、こんな厳冬の旅行は日の出後一時間して出発し、日の入り一時間前に宿に着かないと凍傷にかかると教えてくれた。
 丁度その日から生憎三寒に入って、寒さは中々猛烈であった。日の出後二時間も経っているのに、出発にさしかかると、寒さがひしひしと身に迫って、外套のボタンが外れても手が凍ってはめることができなかった。私は馬の上で凍傷にかかったのではないかと、時々手足の指を動かせてみた。
 この日の行程は七里であった。別倉では未だ日が高かったが、主婦の言葉を守って、鮮人宿に馬夫と二人でゴロ寝した。馬夫は大風のように、ゴーゴーと鼾をかいている。何処からか冬砧(トウチン)の音がカンカン響いてくる。カンテラがヂイーヂイーと音をたてた。私はそぞろに旅愁をおぼえて、どうしても眠れなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 3

 途中憲兵出張所の前に来ると、そこには必ず五六人の憲兵が整列している。
 隊長が自動車から降りると、軍刀を抜いて、「かしらァ右」と号令をかける。隊長は挙手の礼をしながら、事務室に入る。そして凡そ十分位訓辞をしては又自動車に乗る。出張所や分遣所がある毎に、隊長は例外なくそれを繰り返した。
 その間私は幌のない自動車の片隅で寒さに震えていた。
 一本町の長い成川邑に入ると、そこには新任隊長を出迎える邑内の官民が沢山並んでいた。
 隊長は威勢よく自動車から降りた。私は罪人ででもあるかの如くこそこそとその人ごみの中を通り抜けた。そして旅館の前まで来ると又「かしらァ右」と、今度は破れ鐘のような号令が聞こえた。

 私は風呂から上がって、そそくさと夕飯を済ませて、温突(オンドル)の蒲団の中にもぐり込んだ。 
 陽徳はここからまだ二十二里もある。昨年の十月に守備隊が引き揚げてから俄かに寂れた。今は宿屋もなければ床屋もない。それに又近く雑貨屋も引き揚げるらしい。全く今の陽徳は灯が消えたようだと、床をとりに来た時の主婦の言葉を思い出して、何だか心細い消え入るような気がした。私はどうしても眠れなかった。
 何処かで、驢馬が咽喉でもえぐられているような声でしゃくり鳴いた。

 ここからはどうしても馬でたつより他に仕方がないが、私はその朝鮮馬に乗ることが大嫌いだ。それは大正四年の冬、全南の長城から潭陽に帰るときのことであった。朝鮮馬に乗って、折柄降りしきる雪に外套の頭巾を目深にかぶって馬に跨ったまでは無難であったが、潭陽に近づいた処で馬夫が手綱を放して用を足している間に、その白馬がフト何ものかに驚いて一足飛びに駆け出した。私は驚いて馬の鬣をしっかと握っていたが、馬が駆ける反動で外套の頭巾がだんだんと顔に被さってきて、遂に全く目が見えなくなり、ドウッとまっ逆さまに雪の深い溝に転がり落ちた。幸いに眼鏡を毀したのみで大した負傷もしなかったが、馬はいきりだってそのまま潭陽まで駆け帰ってしまった。馬夫は非常に気の毒がって、とうとう馬賃も請求に来なかった。それ以来、私は全く朝鮮馬に乗ることが嫌いになった。

2010年4月18日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 2

 翌日朝早く、道庁の第二部長(財務部長)に就任の挨拶に出かけた。道庁の入口では、昨夜来降り積もった雪を大勢の小使が担架で運んでいた。
 厳めしいカイゼル鬚の部長は葉巻を燻らせながら、グイと回転椅子を私の方に向けた。
 「君の辞令の日付は?」
 「ハイ、大正六年十二月三十一日付であります。」
 「三十一日付か。」とT部長はつぶやく。
 「君は陽徳はまだ知らないだろう。」
 「ハイ、存じません。」年若い私は何だかT部長から威圧されるような気がした。
 「陽徳はいい所だよ。箱根のような温泉が二箇所もあって、それに山は皆京都の東山のような山ばかりで、全く山紫水明の地だよ。本道の理事の中にも陽徳の希望者が沢山あったが、君は平北から来て、特に陽徳に行くようになったのは仕合せだ。赴任したら大いにやってくれ給え。」などと歯切れのいい数語を聞かされて、又宿に帰ってきた。

 そして炬燵の上に、先刻道庁で貰ってきた道勢一斑の地図を広げてみた。
 義州を発つとき山口老理事から「陽徳は平壌から三十八里、元山からは二十二里の地点で、狼林山脈中にある一僻邑(へきゆう)だ。定めし当分は淋しいことだろう。」と聞かされたが、今日の部長の話によれば、大して悲観するにも及ばないらしい未見の新任地をいろいろと想像してみた。

 その頃平元道路は立派に完成していたが、自動車は平壌から十六里離れた成川邑までしか往来していなかった。それも三日に一度という不便な交通状態であった。

 ともかく私は一月十九日(大正七年)の自動車で、高見君に見送られて平壌をたった。
 自動車の乗客は、私とトランクを沢山持った憲兵大尉と唯二人きりであった。そしてだんだん話している中に、その大尉は成川の憲兵隊に、新任分隊長として赴任するのだということが解った。私はこの二人の新任者が幌のない自動車に乗り合わせて、お互いに新任地に思いを馳せながら、雪の広野を東へ東へと驀地(まっしぐら)に進んで行くことは面白い因縁だと思った。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 1

第一歩

 その夜の平壌は、大吹雪であった。全く咫尺(ししゃく)も分からない。新義州から電報を打っておいた同級生の高見君も一向迎えに来ていない。
 駅前に並んでいた十五、六台の人力車は、何れも下車した客を乗せて吹雪の中に吸い込まれるように消えてしまった。 
 私はどうしたらいいかと当惑していると、高見君が黒いマントの裾をつかんで吹きまくられながら、直ぐ目の前の吹雪の中に現れた。
「やァ!」と、私は落ち込んだ淵から救われたような気持ちで叫んだ。
「おい、今夜の吹雪はひどいなァ!」と高見君は曇った眼鏡をはずして拭きながら、
「実は早く来ようと思ったが、銀行が馬鹿に忙しくて今夜も夜勤を止めて、銀行から直接やって来たんだよ。」と息をはずませて言った。

 二人は学校を卒業すると土地調査局に勤めたが、大正六年の秋の半ばに、二人とも申し合わせたように退官してしまった。高見君は漢城銀行に入ったが、私は理事見習いとして、虫が鳴く国境の義州地方金融組合に赴任し、そこで見習いの三ヶ月を訳もなく過ごした。
 そしてその年の暮れに、突然、平南陽徳地方金融組合の理事を命ぜられた。私は平北を、恰も追放者のような心持ちを抱いて、朝夕見なれた統軍亭に名残の一瞥(いちべつ)を投げて出発したのであった。
 
 二人はやがて吹雪の中を泳ぐようにして町に出た。
 平壌は大正二年まだ学生時代に、暑中休暇を利用して無銭旅行で来たことがある。その頃は人車といって、レールの上に箱を置き客を乗せて、それを人間が後ろから押して歩いていたが、もうそんなものは見当たらなかった。
 その夜は高見君の下宿している朝日旅館に落ち付いて、吹雪をよそに二人は語り明かした。

朝鮮農村物語 我が足跡

昭和16年に創刊された「朝鮮農村物語」。

ブログでの紹介を始めてまだ3日ではありますが、
多くの皆様にご覧いただき私自身大変驚いております。

ありがとうございます。

本日より本編をアップしていきます。

少しずつではありますが、ぜひご覧ください。


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我が足跡

 「我が足跡」は私の金融組合生活を書いたものである。大正八年の早春、突如平和な朝鮮に、例の万歳事件が起った。その当時、若い理事であった私は、平南陽徳で右腿部に貫通銃創を蒙った。それからもう十年という月日が流れたが、私はとうとう跛者になってしまった。
 私は今も尚理事として第一線に立っている。辺境蕭條の夜に、あれを思いこれを考えるとき、甚だ感慨に堪えない。この「我が足跡」はその感想の断片と十年に亘る私の組合生活の一部を拙い筆に依って綴ったにすぎないのである。

  昭和三年九月二十六日
  於 平 南 江 東
著       者

2010年4月17日土曜日

朝鮮農村物語 序 5

 本書の編集から発行に至るまでの一切のこまごまとしたことは、木内高音氏と私とがあたったのであって、本書に何等かの不備な点があればそれは私たちの責任である。昨年の秋、紀元二千六百年の祝典に参列のため上京した著者と私たちとの間に簡単な打ち合わせはあったが、遠隔の地にある著者はすべてを私たちに一任したのであった。

「我が足跡」「それから十二年」の二篇を合して、これに「朝鮮農村物語」という書名を附したのは私である。著者を通して、「大地に生きる」式の書名を推してきた人もあったが、私は採らなかった。一見して何が書いてあるかを明示する質実な標題が本書のために好ましいと思った。「朝鮮農村物語」という書名は一般的にすぎ本書のもつ性格をあらわしていないということはあろうが、いろいろ考えた末に、結局この平凡な書名をよしとしたのである。
「我が足跡」には万歳事件の記述がある。これは著者の人生に影響した事件であり、この事件を境目として著者の新生活ははじまるのであるから、この記述は逸するわけにはいかない。
雑誌発表の時からは年も経っているので、岩田君の尽力で朝鮮総督府の内閣を経、差し支えなしということであったとの通知に接したが、私たちは尚その上に、いくらか削除したり、字句の修正をしたりした。著者負傷前後の事実の経過を明らかにする必要以上の記述はもとより最初からなかったのであるが。

 しかし二段組みにして五百頁近くに及ぶ本書の原稿全部に数回にわたって目を通し、章別を正し、誤字を正し、印刷に廻ってからは校正を全部自ら見て、こまかに心を配ったのはすべて木内氏の労なのである。氏はもっとも繁忙な仕事のなかにありながら本書の事は最初から最後まで一人で手がけられたのであった。私は時々氏から意見を求められて答えるにとどまった。氏の尽力がなかったならば本書が世に送られることはできなかった。著者と共に氏に対して深い感謝の意を表する。

 著者は昨年の暮れに黄海道から京畿道に移って今その地の組合にあって活動している。著者の今後の健康と活動とを祈ってやまない。
       
     昭和十六年九月
                           島  木  健  作      

朝鮮農村物語 序 4

「朝鮮農村物語」は農村更生物語である。そして著者は金融組合というような機関に職を奉じている人である。物語は明るくて感心な挿話に満ちているのである。従来この種類の本は少なくはないだろうが、知識階級の読者層からは多く顧られるに至っていないと思う。しかしこの本は、それらのものとはおのづからにして異なる特色を持っている。

 この本を読んで、この本が明るくて感心な挿話にのみ満ちているからといって、そのために反感を抱かしめられるという人はないだろう。「そんな感心なことばかりあるものか、こういう現実もある。こういう現実はどうしてくれるのだ。」というような態度をもった人はその感心な話に向うことはできないだろう。人は却って素朴な気持のいい感動に満たされるだろう。
 それはここに書かれていることには一つの作りごともないからである。すべては著者が身をもって踏み行ったことばかりである。そこにはまた何等の誇張も強がりもない。体験の事実が豊富だからそんな必要もないが、それよりも何よりも温雅な著者の人柄故にそんなことになりようはない。まことにこの本の生命は著者の人柄からおのづからにじみ出ている香気である。幼稚な文章も、所々にはさまれている、平凡陳腐な感慨もその香気のなかに一つに溶け込んでいる。

 近頃は三年か五年の農村指導者が非常な大きな身振りで言ったり書いたりし、さまざまな機関がまたそういう人を宣伝に使っているということが多く目につく。しかしこの本の著者はすでに二十数年間を朝鮮の農村の事に関係して暮してきているのである。そういう生活のなかから生まれ出たこの本は、本つくりの本ではなく、その人の生涯にただ一冊という種類の本なのである。

 著者の見る目や行動は、金融組合という機関を通している。そこには明白に一定の限界がある。しかしながらまたそういう限界をはるかに突き抜けているものもあるのである。美しい人間の心がそういう限界を突き抜けさせているのである。氏の行動が最も生彩を放ってくる時、私はそこに金融組合の理事を感ずるよりはじかに人間重松を感ずる。氏の人格が次第に村の人々の上に及んで、彼等の生活に幸福がもたらされる過程は感動的な美しさにみちている。

 内地の読者の間には朝鮮の事は余りにも知られなさすぎるようである。本書は朝鮮を知らしめ親しますためにも意義がある。外地における日本人の生活についても、多くの考えさせるものをもっている。農村における能率的な活動、増産ということについてはもとより非常に多く教えるものをもっているのである。

2010年4月16日金曜日

序 3

「それから十二年」には、その前につづく文章があるのであって、それは「わが足跡」と題するもので、やはり組合の機関紙に載ったものである。私は重松氏に乞うてその抜刷を得た。この篇は、まだ二十代の青年であった重松氏が平南の奥地陽徳に勤務中、所謂万歳事件に逢って負傷し、九死に一生を得、後に再起するまでのことを記したものである。組合では氏に対する同情から、現地の第一線から退かしめて、都会で、連合会の事務的な仕事を担当させ、氏もしばらくその任にいた。しかしどうしてもそういう生活にはあきたらぬものがあり、自ら希望して再び農村へ出たのである。そこが江東であった。その時から十二年間の生活というので「それから十二年」といったのである。

 私は雑誌連載の今までの分をまとめて送ってもらうことを、岩田君にも著者にもお願いして旅行から帰った。秋になって物語も完結したということで、今までの抜刷を一冊にまとめたものを送ってきた。
 私は通読してみた。それは私の予想どうり、農村更生物語にすぎなかった。「すぎなかった」というのは、それが文学的な著述でもなく、鋭い分析の書でも批判の書でも現実暴露の書でもないということであって、何等軽視する気持ちを含んでいるのではない。私は読みつつ、このような記録は広く読まれねばならぬものだということを強く感じた。

 私は、「我が足跡」と「それから十二年」とを携えて、中央公論社の出版部に木内高音氏を訪ね、一読を乞うた。木内氏は早速読んでくれた。そして非常に感動したと言って、進んで出版の事を引き受けられたのである。

序 2

 文章は非常に素直なものであった。素人らしい修飾も少なく、簡潔であった。記録文学ということを意識して書いているのでもないのだった。神経質でないあたたかさはことに好ましいものであって、筆者の人柄がしのばれるのだった。
 私の感想を聞いて岩田君も喜んだ。この文章が沢山の人々に愛し読まれていることを語って、編集者としての喜びを言った。

「そこに書かれているのは、平安南道の江東の組合時代のことですがね、重松さんは今は黄海道の支部長なんです。今日、これからお逢いできる筈ですが、」と、岩田君は言って、重松氏の人となりと仕事について話しはじめた。私たちは海州行の汽車に乗っているのであった。
 海州に着いた時、私たちは、足の不自由なからだを杖に托して駅頭に出迎えてくれている重松氏を見た。氏の温顔に接した時、私は舊知(きょうち)のような親しさを感じた。銃丸に貫かれた氏の足の負傷についてもその時はもう私は聞き知っていた。

 その夜、私は夜おそくまでも同氏の話を聞いた。朝鮮の農村事情について、江東金融組合時代の氏の生活について聞いた。話は非常に面白く有益であったが、それにもまして感じたのは氏の重厚な人柄であった。氏は特徴ある顎髯をたくわえていて、美髯といっていいほどであるが、卒然として見れば叱咤号令する人のごとき風貌である。しかし眼鏡の奥の眼は、童子のようなやさしさを湛えて輝いている。話すに従ってその心情のこまやかさ、やわらかさに全くちがった人柄を感じる。不自由な足をひきずり、跛行せねばならなかった若い頃の氏は、先ず何より周囲の住民からのあなどりをふせがなければならなかった。親しまれる前に威厳を示さねばならぬこともあったのである。後にはそのために一層親しまれることになった顎髯も当初はそんな必要からのものであった。二十数年前の朝鮮の奥地の蒙昧な生活を語る氏の話は非常にユーモラスでさえあった。私は外地における日本人について多くを知るものではないが、重松氏のような人物を見ることに有難さと頼もしさとを感じたのである。

序 1

 本書をこのような一冊にまでまとめて世に送ることを、著者にも発行者にもすすめたのは私なので、その立場から本書と著者とについて一言したい。

 昭和十五年の初夏の頃、私は朝鮮へ旅し、朝鮮金融組合連合会の岩田龍雄君の案内で、黄海道地方の農村へ行った。途中の車中、岩田君は朝鮮の農村事情についていろいろと説明したが、やがて鞄の中からその月の金融組合の機関紙を取り出し、その中のある文章を示して、それを是非読んでみるようにと言った。岩田君は当時、機関紙の編集の方を担当していたのである。
 氏が示した文章というのは、「それから十二年」というので、物語風に書かれたもので、もうだいぶ回数を重ねているらしい様子であった。作者重松髜修氏は金融組合の役員の一人だということであった。

 汽車はのろのろと走っていた。車窓から見る農村風景は私には珍しかった。私は見たり聞いたりすることに忙しかったが、それでもその合間に、「それから十二年」にざっと目を通すことができた。
「いかがですか?」と、岩田君はたずねた。私は「非常に面白い」と言って率直に自分の感想を語った。「それから十二年」は物語風に書いているが小説ではなかった。田舎に住んで仕事をしている金融組合の職員(重松氏)が、組合の仕事を中心に村の生活をありのままに記したものであった。私という主人公の生活が中心だが、狭い私生活に膠著せず、朝鮮農村のいろいろな姿が見えるように描かれており、二つの民族が交流し合っている難しい関係のなかで仕事をしている人々の心情も温かく読むものの心にしみるのであった。