田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月26日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 1

 夜半のしじまを破るものは、唯我々の足音ばかりであった。私は進さんの家と棟並びである自分の家を星明りに顧みながら黙々として歩いた。青年会堂の前に来ると、突然闇の中から、
「髜修さん!」と呼びかけた者があった。
 私はギョッとしたが、直ぐそれが灰かぐらをたてたOさんの声であることがわかった。Oさんは茶色の外套を着て、大きな黄楊のステッキを持って私共に追いついて来た。
「進さん、大丈夫でしょうか?」と、Oさんは低い声で聞いた。
「そんなに心配することはないでしょう。然しこの群衆心理というやつは、意外な結果を生むことがありますからね。それに憲兵隊では、補助員を除くと所長と班長と上等兵が四名で、そして地方側が全部で十二名ですから、合計十八名で、その他は婦女子や子供ばかりですからね。」
「・・・・・・・・・・。」
進さんの話に対しては、Oさんは何とも言わなかった。そして何か自分で深く考え込んでいるらしかった。話が途切れるとまた元の静寂に返ってしまった。そして我々が凍った大地を踏みつけるその足音が鬱蒼たる保護林にもの淋しく谺(こだま)するばかりであった。進さんに手を引かれていた坊ちゃんは、思い出したように、
「お父ちゃん、何処へ行くの?」と進さんを見上げるようにして訊ねた。
「憲兵隊に行くのよ。」
「どうして憲兵隊に行くの?」
「みんなが行くことになったから・・・。」と言ったが、父としての進さんは、それ以上その際説明することはできなかったに違いない。坊ちゃんは更に、
「組合のおじさんも行くの?」と一段高い声で私に聞いた。
「ええ、おじさんも、Oさんのおじさんも皆行くのですよ。」と私は答えた。

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