私共はそれから三四日徹夜して看護に手を尽くしたが、更に何の効果もないので、止む無く奥さんが付き添い、三十八里の山道を氷嚢で冷やしながら、死を賭して平壌に出て慈恵医院に入院すると、直ちに腸チフスと診断され、隔離病舎に収容された。進さんが全快して退院するその日に、今度は奥さんが感染して、進さんの荷物をそのまま残して同じ室に入院した。それから二ヶ月目に進さん夫妻は子供を連れて帰ってきたが、その時は既に転勤の辞令を貰っていたので、私共が待ちわびていたかいもなく出発してしまった。
続いてOさんも転勤した。そしてその年の秋には、騒擾当時在勤していた人々は全員転勤して私一人が取り残されたのであった。
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