田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月19日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 5

 その翌日は宿泊する部落の関係上、強行軍を余儀なくされた。強行軍には前の主婦の言葉も守っていられない。まだ薄暗いうちに出発して、昨日の赤馬に乗ったり降りたりして、漸く十二里の道を走破して陽徳邑に二里の手前、石湯池温泉に辿り着いた。もうその時は日がとっぷり暮れていた。ここは内地人も憲兵以外は誰も住んでいない。
 面事務所の前のダラダラ坂を下ると、板屋があって、そこから濛々と湯気がたっている。一寸のぞいてみると、朽ちかかったかなり大きい浴槽に、湯が満々と湛えられている。板戸の隙からは鎌のような寒月が差し込んで、金色の小波がたっている。番人もいなければ浴客もいない。勿論灯もついていなかった。
 私は部長の、所謂箱根の温泉とはこれだなァと思って、月明かりを幸いに、疲れた身体を浴槽に横たえた。すると湯がザァーザァーとこぼれた。
「ヨンガムさん、灯を持って来たョ。」と馬夫が蝋燭を持ってきた。
 天井を仰ぐと、幾筋かの氷柱が垂れ下がっている。それが濛々と立つ湯気のためにとけて、時折身体の上にぽつりぽつりと雫が落ちてくる。その度に私はひやりとさせられた。
 寒月は窓から無心に流れ込んでいる。この太古のような温泉に浸っているうちに、何時の間にか私自身が太古の人のような気分になってしまった。

 ここから陽徳までは僅かに二里だが、馬夫が直ぐその足で別倉まで引き返したいから早く行こうと言うので私を起こした。薄暗いランプを点けて朝飯を食べたが、何を食べたか分からなかった。そしてほのぼのと明けかかった頃、シャンシャンと馬を追い立てて、温泉を出発した。

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