田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月23日金曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 4

 その頃また奥さんは妊娠して、丁度臨月であった。 
こうして陽徳で成長し、陽徳で家庭をつくった洪君は、故郷は平壌であったが、今は全く陽徳を自分の故郷と思っているようだった。その住み慣れた陽徳を今また、家族を残して単身出発するということは、洪君としては感慨に堪えなかったのも、決して無理はない。

「理事さん、妻は臨月ですから、子供と一緒に残して行きますので、何分宜しく頼みます。この春暖かくなればまた迎えにまいります。」と言って洪君は赤くなった目をこすった。
「随分大事にして働きなさい。家族のことは及ばずながらお世話するから心配しないでね。」と言って私は朝倉理事に宛てた紹介状を渡した。それを洪君は受取ると、マントを着たまま、馬夫が引いてきた馬に乗った。雪は紛紛(ふんぷん)として一層激しく降りだした。

奥さんに抱かれていた子供は、泣き出しそうな顔をして、「アボジイ!」と叫んだ。
洪君は黙って馬上から頷いた。その途端馬はシャンシャンと歩き出した。
奥さんは子供を抱いたまま、降りしきる雪の中に佇んで、洪君を目送しながら何か祈っていた。

 邑はずれの陽徳橋を渡ると、洪君は最後に邑を振り返って、妻子のために雪の馬上に祈りを捧げた。
もう洪君の姿は、降りしきる雪のために見えなくなった。
シャンシャンと鳴っていた馬の鈴も、今はもう全く聞こえなくなってしまった。
私は淡い離愁を抱いて、何時までも雪の中に佇んでいた。

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