田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月25日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 9

 私は後に残ったOさんと後片付けをした。その時Oさんはカンカンと熾(おこ)っている火鉢の火が危ないというので、鉄瓶の湯を上からザアザアとぶっかけた。濛々たる灰かぐらが天井に舞い上がり室内に広がった。Oさんは、
「火気があると火災の憂いがあると思ってやったら、エライ事になった。」と、独り言のように言って、その灰かぐらを逃げるようにして支度をするため自分の家にと帰って行った。

 私は直ちに洋服に着替えて、巻脚絆をクルクルと巻いて、護身用の挙銃を腰に吊って門に出た。そして月明かりに門標をはずして内庭に投げ込んだ。するとそれが凍った庭石に当って、カラカラ淋しい空ろな音を立てた。

 隣の進さんを誘いに行くと、進さんは七歳になる長男の手を引いて、奥さんは四つになる長女を背負って出掛けようとするところであった。
「進さん、準備は出来ましたか?」
「準備といったって何もありませんよ。まったく着の身着のままですよ。」と、洋服を着てゲートルを巻いていた進さんは自分の家族を顧た。そして、
「重松さん、貴方とはこうして隣同士に住まって、長い間兄弟のように暮しましたが、愈々お別れする日が来ました。我々は日本人である。死すべき時には潔く死にましょう。今家内には十分言い含めておきました。これは私の家の先祖伝来の兼氏の一振でありますが、まさかの時の用意に貴方に差し上げます。これが要るような事があっては大変ですが、どうか男らしく働いて下さい。」と言って、進さんは黒い袋に包んだ一振の日本刀を私に差し出した。そして尚も、
「我々に万一の事があったら、この無心の子供が全く可哀そうですね。」と、進さんは暗然として、坊ちゃんの手を堅く握りしめた。

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