田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月19日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 3

 途中憲兵出張所の前に来ると、そこには必ず五六人の憲兵が整列している。
 隊長が自動車から降りると、軍刀を抜いて、「かしらァ右」と号令をかける。隊長は挙手の礼をしながら、事務室に入る。そして凡そ十分位訓辞をしては又自動車に乗る。出張所や分遣所がある毎に、隊長は例外なくそれを繰り返した。
 その間私は幌のない自動車の片隅で寒さに震えていた。
 一本町の長い成川邑に入ると、そこには新任隊長を出迎える邑内の官民が沢山並んでいた。
 隊長は威勢よく自動車から降りた。私は罪人ででもあるかの如くこそこそとその人ごみの中を通り抜けた。そして旅館の前まで来ると又「かしらァ右」と、今度は破れ鐘のような号令が聞こえた。

 私は風呂から上がって、そそくさと夕飯を済ませて、温突(オンドル)の蒲団の中にもぐり込んだ。 
 陽徳はここからまだ二十二里もある。昨年の十月に守備隊が引き揚げてから俄かに寂れた。今は宿屋もなければ床屋もない。それに又近く雑貨屋も引き揚げるらしい。全く今の陽徳は灯が消えたようだと、床をとりに来た時の主婦の言葉を思い出して、何だか心細い消え入るような気がした。私はどうしても眠れなかった。
 何処かで、驢馬が咽喉でもえぐられているような声でしゃくり鳴いた。

 ここからはどうしても馬でたつより他に仕方がないが、私はその朝鮮馬に乗ることが大嫌いだ。それは大正四年の冬、全南の長城から潭陽に帰るときのことであった。朝鮮馬に乗って、折柄降りしきる雪に外套の頭巾を目深にかぶって馬に跨ったまでは無難であったが、潭陽に近づいた処で馬夫が手綱を放して用を足している間に、その白馬がフト何ものかに驚いて一足飛びに駆け出した。私は驚いて馬の鬣をしっかと握っていたが、馬が駆ける反動で外套の頭巾がだんだんと顔に被さってきて、遂に全く目が見えなくなり、ドウッとまっ逆さまに雪の深い溝に転がり落ちた。幸いに眼鏡を毀したのみで大した負傷もしなかったが、馬はいきりだってそのまま潭陽まで駆け帰ってしまった。馬夫は非常に気の毒がって、とうとう馬賃も請求に来なかった。それ以来、私は全く朝鮮馬に乗ることが嫌いになった。

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