田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 8

養鶏貯金

 江東金融組合の貯金奨励方法は、あくまで周到な注意が払われている。単に貯金を奨励して現在家庭経済節約から吸集した貯金では飽き足らず、如何にして副業乃至産業を奨励してその収益を貯金せしめようと、先ず副業奨励方面に意を用いて前記の如く、養鶏模範部落を設置してその生産した鶏卵の販売収入の一部を預金せしめようとする方法で貯金を奨励しているが、学童貯金の如きも家庭から特に捻出せしめた金を集めては面白くないといって、学童に対しても種卵を無償にて配布し、前同様自ら学業の余暇に養鶏に従事し、その収益を貯金せしむべく、目下児童の希望者に種卵配布中である。
             (昭和二年五月十三日平壌毎日新聞より)


朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 7

   模範部落に遂年増加して、江東鶏の名を馳せん

 最初養鶏模範部落の場所は、邑内からあまり遠くない実地指導に便利な前記江東面下里を選定して、同里の住民を殆ど全部組合員として、大正十五年度には組合の精神と業務に対して徹底的に実地指導を行って、組合の趣旨の普及に努めたのである。道では奨励鶏を名古屋種に決定しているが、決定前に既に計画された右部落に普及する鶏種は、白色レグホーンであって、実行方法としては成鶏及び雛の配布を為さず、種卵を無償で配布するのであるが、種卵配布の場合は成鶏乃至雛を配布さるる時と違って、自己の手に依って孵化することとなるから、従って生まれた雛に対する愛着が一層深く、従って設置の趣旨が徹底的に行わるるであろうという綿密な考えから、種卵を配布するのであって、単に経費の都合ばかりではないのである。配布の方法は養鶏家五十戸に対して、一戸当十五個宛として、その種卵七百五十個は、重松理事の生産にかかる種卵を無償で母鶏就巣の順序で配布する事として、昭和二年二月から五月上旬までに完全に配布済みとなっている。重松理事は更に進んで学童養鶏及び付近希望者という順序によって又種卵の無償配布をしていた。曩(さき)に配布した種卵は大部分雛となっていることは前に記した通りである。

それから模範部落にて生産した鶏卵や鶏は組合に於いて協同販売に附して、その代金の一部を貯金せしめて、二十円以上になったら牛を買い入れしむるようにしている。

 第一模範部落が完了すれば、更に第二模範部落を設置することになっているが、その設置方法は第一部落と殆ど同様である。配布する種卵は第一模範部落設置の際配布したのと同数の種卵を第一部落から、それぞれ寄贈せしめ、相互扶助、共存共栄の組合精神を吹き込み、かくの如くにして第二より第三、第三より第四模範部落を設置して、順次之を増設して、将来は一郡の養鶏産業をすべて改良種として、立派な一郡の養鶏産業にしようとの計画であるが、郡当局でも重松氏のこの事業に頗る共鳴し奨励に努めているから、数年の後には同氏の事業も必ず実を結んで、氏は江東郡の産業的恩人と謳われる時が来るに相違ない。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 6

  私財を投じて副業の奨励を図る
   養鶏模範部落を設置して努力する重松金組理事
   江東の農村経済  産業リレー第一班池田記者

 江東金融組合の主要施設事項の一つに、養鶏模範部落設置という特色のある一項がある。これは農村経済の振興を図るために、副業を奨励して貯金の資源を与え、一面鶏種改良の数年間の継続事業として今年度から設置されたものであるが、大正十四年十月から同十五年中は、専ら種鶏の作出に努力した。金融組合の施設事項となっているが、実際重松理事個人が既に私財一千円以上の犠牲を払って、養鶏数百羽の飼育をなし、養鶏模範部落並びに学童等に配布する種卵の如きも勿論無償で配布したのであるが、既に配布したもの約千五百個に上り、設置場所は江東面下里ショウ項洞一円で、五十戸に対して配布した同氏の種卵が孵化して、養鶏模範部落は同氏の徳を讃えながら、今正に実現の第一歩にあるのである。重松理事の庭には所狭いまでに沢山の鶏舎が建てられ、氏が選定した種鶏白色レグホーンをはじめ、道決定の名古屋種その他が健やかに飼育されている。重松夫人の如きは重松理事の勤務中、氏の百数十羽の種鶏の世話に朝からかかり切りであって、夏期中など陽に焼けて、若き女の身空で真っ黒くなって重松氏を助けながら、よく今日に及んだものでる。同氏夫妻の燃ゆるような熱と不屈な奉仕の仕事に敬意を表して、その模様を少し調べてみる。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 5

 翌る昭和二年の二月より、下里養鶏模範部落の設置、学童養鶏、付近の希望者といった順序に、白レグと名古屋種の種卵をドシドシ配布して、当初計画の通り千五百個の種卵を完全に無償配布を了して、その年の初夏には、部落では改良種の雛が盛んに活動していた。

 丁度その頃、平壌毎日新聞社では、産業リレーを行って、西鮮三道の産業状態を調査して、連日掲載報道していた。そして当組合にも第一班の池田記者が訪ねて来て、いろいろ調査したり、親しく実地を観察した結果、昭和二年五月十三日の平壌毎日新聞に、養鶏模範部落の記事が詳細に報道された。今それを茲に掲げて模範部落設置の記事を省略することにする。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 4

 そこで私は副業養鶏を最も適当なるものと信じて、之を奨励することにした。即ち養鶏の産物の販売によりて、時々の収入を得せしむるのである。凡そ人は有る時の十円の金よりも、無い時の五十銭か一円の金がより以上に貴重であり、また役立つものである。そして更に進んで農民に副業を授け、貯金の資源を与えると共に、一面また近時個人主義の思想勃興し、ためにややもすれば協同主義の精神没却せられんとする傾向あるにあたり、副業養鶏の奨励並びに模範部落の設置等の施設は啻に組合員の経済の発達を促すのみならず、更に組合員間の協同主義の精神を強固ならしめ、又組合員と組合との関係を緊密ならしむる点においても、偉大な効果があるものである。

 そこで固き信念と強き決心とをもって、愈々本事業に着手したが、着手するに当って、妻にも本事業の目的及び性質を充分に理解せしめておく必要があるので、妻を連れそちこちの養鶏場を視察して、大正十四年八月着任と同時に私費を投じて種鶏二十羽を買い入れ、大正十五年は自ら鶏糞にまみれて、専ら自分の手許を充実し、百羽の成鶏を管理して、全く陣容を整えたのである。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 3

 赴任して区域内の事情をいろいろ調査してみると、中農以下就中小農に属する農民は、毎年三月から六月下旬の蚕繭の出回り期までは、糧食も尽き果てゝ、全く日常の生活にも困難を来たすものが少なくない。
そしてこの種階級の人々は、一朝凶作に遭遇するか、あるいは病魔に襲われると、全く再起さえも覚束ない状態である。これは畢竟農村に於ける一ヵ年の収入が平均しないで、主として収穫期ばかりであって、次の収穫期までは殆ど収入の道がない結果である。殊に本道の如く二毛作を為し得ざる地方に於いては、農作物のみによって随時の収入を得、収入期の平均を保たしめて、生活の安全を図ることは困難である。故に此の種階級の救済策としては、殊に其の地方に適した副業を奨励し臨時収入の機会を多くし、なるべく収入期の平均を図ることが肝要である。
しかしながら適当なる副業を奨励して、疲弊に苦しみ困難に悩みつゝある中産階級以下の組合員をその苦境より脱せしめんことを焦慮工夫するも、しかも容易に適当なる副業を見出すことが出来ないのであるが、真面目に組合員のために図り、真剣に組合員を生かすために工夫をなし斯く副業を得せしめる事を痛感し、之を得る事に熱心なれば、そこに自ずと副業は生まれ、当初その成績みるべきものなしとはいえ、これを実行する中に副業は培われ、之を継続する中に副業は成長し、やがて庶民から生活安定の福音として大いに歓迎せらるるようになる。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 2

 慈恵医院の院長は温顔に微笑みながら、私に対して「貴方は全く再生したのだ」と言ったことがある。

 半島開拓の聖壇を碧血で血塗った私は、今また再生の希望と歓喜とに燃えて、更に残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。
そうだ、愛と力と熱とは総てを征服する。こう決心したとき、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた。

 そして私は何の躊躇もなく、大正十四年七月、江東金融理事として、再び第一線に立ったのである。

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 1

 大正八年三月八日、陽徳分遣所の朝露に轟いた一発の銃声は、遂に私を終生不具としてしまった。秋風そよぐ夕べ私はそゞろに疼痛を覚え、幾度か弾痕を撫して泣いたことがある。  

 ある時は花柳病患者と見誤れ、またある時は心なき人から不具として嘲られたりしたこともあったが、その度毎に私の顔には淋しい笑いが漂うていた。
 しかしながらまた皎々たる月明りの夜、静かに黙想して、あの騒擾の際、私が貫通銃創を蒙って、風前の燈火の如く危うく命の絶えなんとするその刹那、敢然万死(かんぜんばんし)を冒して私を死地から救い出してくれた恩人進さんの友情を思い、また自分も傷つきながら私を案じてくれた組合員崔さんの真情を思い、将又嘗て書記たりし洪君の変わらぬ情誼を思うとき、私は人間としての感激の血潮が躍動した。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 5

 辞して南方の小高い丘に上って、その当時葬られた暴徒の墓に詣でた。芝草に覆われた土饅頭の墓には、所々に名もない小さい白い花が無心に咲いていた。私は静かに跼(せぐくま)んで暫し黙祷を捧げた。

 踵を返(めぐら)すと私が嘗て撃たれた元の憲兵隊の正門の扉は赤い夕日に照りだされていた。

 私は芝草を踏んで丘を下りた。裏山の保護林では閑古鳥が淋しく鳴いていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 4

 嘗て騒擾事件に負傷した二人が、今此処で六年目に巡り会って、お互いに負傷の予後を案じて問い交わしたことは、誠に美しい人情の発路で、そこに真の内鮮融和幽玄が湧き、庶民提唱の平和が築かれるのである。融和は正に一片の浮き雲の如きもので、如何に巧みな辞令や、流麗な文字を美しく羅列しても、それが真の心の叫びであり、誠意の披瀝であり、真心の融合であり、人格の接触であらねば、真の内鮮融和は期せられない。

 理事としての私は組合員崔さんの人間としての真情に動かされると同時に、また彼等を動かさずには止まないという熱情が胸いっぱいに燃え上がった。
 業務調査が済むと、私はかねて舊知のそちこちを挨拶に廻って、元憲兵隊の跡である駐在所に行った。すると其処の憲兵上がりの主任は、
「お名前はよく拝承しています。理事さんはこの建物は思い出が多いでしょう。」と言って茶をすゝめてくれた。
 私は主任の許しを得て、嘗て収容された宿直室や毛布を吊って光線の漏れないようにして不安な一夜を明かした宿舎や、負傷して倒れた構内のそちこちをステッキに縋って、無量の感慨に浸りつゝ徘徊した。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 3

 私は人ごみの中を押し分けて、見覚えのある町を懐かしみつつ歩いて行くと、露店の傍らからフイに私の方に駆け寄って、
「アイゴ! 理事さん!」と私に飛びついてきた者があった。この不意打ちに私はびっくりしたが、それが常々案じていた崔さんであったので、思わず、
「おゝ、崔さんか・・・ よく元気でいてくれた・・・」と叫んだ。

 崔さんの頭は大分白くなっていた。そして日焼けしたその顔には、最早幾筋かの深い皺がよっていたが、笑えばそれがなだらかな線を描いて却って田舎の質朴な好々爺のように見えた。
崔さんは先刻から、私がステッキをついて歩いて来るのを見ていたらしく、
「理事さんは大分足が良くなったようですね。」と言って自分の子供の足でもよくなったのを喜ぶかのように心から喜んでくれた。
「崔さんはその後、頭の傷は痛まないかね。」
「いゝや、私は大丈夫ですが、理事さんの傷はどうですか?」
「有難う、気候の変り目や、無理をした時は痛むが、それでも今は大変良くなって、こうして出張も出来るようになったですよ。」
「大事にして下さい。何れこの薪を売ってしまったら、組合に利息を支払いに行きますから、またお目にかかります。」と、崔さんは笑いながら、松葉をつけた牛を引いて人込みを押し分けて行った。私は崔さんの後姿を見送って、轉た懐舊の情に堪えなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 2

 私は連合会に転勤して丁度三年目に再び山紫水明の陽徳組合に業務調査のため出張する機会を得たので、新たに感慨の血が躍動した。
 もうその頃は邑内の諸官公署は八里手前の大湯池温泉の所在地に移転されていたが、それでも破邑として舊陽徳は新道路の両側にだんだん家が新築されて、少しも衰微の模様はみられなかった。

 折からその日は市日で、狭い町に人々がいっぱい溢れていたので、私は邑内の入り口で自動車を乗り捨てた。

 市の人波を分けて町の中ほどに来ると、ささやかな飲食店がある。その角から右を向いてみると、六年前に担架に乗せられ、公医の所に行く途中、民雇に担架を置き捨てにして逃げられた桑園が、今も昔のままに残っていた。桑園の中には二人の鮮婦が赤い夕日の中に佇んで頻りに桑を摘んでいた。私はもう胸がいっぱいになった。

朝鮮農村物語 我が足跡 真の内鮮融和 1

 私は負傷してから丁度一年八ヶ月の間松葉杖に縋っていたが、それから無理にステッキに換えて歩行の練習をした。その負傷後二年有半をなお陽徳に在勤していたが、色々の関係から私は連合会に転勤することになった。

 思えば私は大正七年一月寒風骨をさす頃、完全な身体で着任したが、大正八年の騒擾に死線を越え、遂に跛足となってしまった。そして大正十年十月、秋風身に沁む頃、愈々陽徳を出発することになったのである。私にとっては誠に感慨が深かった。 


 さらば思い出深き陽徳の山よ、川よ、温泉よ、村人よ、崔さんよ・・・と私は飽かぬ別れを惜しんで陽徳を出発した。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 3

 こうして二週間もいたが、組合の事務が気になったので、また山の温泉で湯治ときめて陽徳に帰っていった。もうその頃は蚕繭がぼつぼつ出回る頃で、元山や平壌から繭買いが入り込んでいた。

 私は毎日事務が引けると、松葉杖に縋って、組合の花壇を一巡りして帰ってくるのが何より楽しみであった。
その日も午後五時頃、事務所をしまってから、松葉杖に縋って、日々に伸びゆく花壇の草花を見ていると、そこへ一人の周衣に鳥打帽子の若い男が、自転車で組合に乗り付けたが、組合の植込みに佇んでいた私を見ると、転ぶようにして飛び下りた。その男の視線がハタと合った時、私は、
「おゝ!」と叫んでよろよろと松葉杖に縋ったまま前に進み出た。それは洪君であった。
「あゝ、理事さん」と洪君は自転車を投げ捨てるようにして花壇の方に走ってきた。

 私は松葉杖を小脇にかい込んだまま右手を出して洪君と堅い握手をした。絶えて久しく会わなかった洪君と私は、もう感慨無量で胸が張り裂けそうであった。そして二人の目には早くも涙が輝いた。洪君は漸く口を開いて、
「理事さんが重傷を負われたことは、あそこにいる時、此処の組合員の崔さんから聞きました。それからまた私の妻が陽徳を引き揚げる時、同じ自動車に乗って、理事さんは慈恵医院に入院されたと聞いて、大変心配していましたが、まだ松葉杖に縋らねばなりませんか?」と洪君は私の変わった姿を打ち眺めて暗然とした。
「ありがとう。この春、崔さんから君の噂を聞いて案じていたが、僕も昨年の騒擾で、まだこんな有様だよ。」
「いゝや、全くなにもかも夢のようです。私もあの時やはり理事さんの傍らに居るか、或は妻子と一緒にいたら、あんな事にならなかったでしょうが・・・・・」と洪君は俄かに顔を曇らせた。そして尚も、
「実は此処で生まれた子供にも、この春帰ってきて、初めて会ったようなわけです。」と洪君は子の父としての自分を深く顧みて、太い吐息を漏らした。
「いや、あの時実は僕も君のことを非常に心配していたところ、朝倉理事から知らせがあって全く驚いたが、然しね洪君、過去は過去だ。これからは大いにお互い働こうよ。」
「それで実は私も遊んでいても仕方がないと思いまして、今度ある資本家をみつけて、繭買いを始めて、久方振りに理事さんに会いたかったので漸く今来たところです。
「とに角、此処では思うように話もできない。まあ僕の家に行こう。」と私は洪君を促した。

 私が松葉杖に縋って歩きだすと、洪君は自転車を押してついて来た。事務所のポプラの若葉が風もないのにサラサラと音をたてた。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 2

 藤本病院は、内科婦人科花柳病の専門医で、花柳病患者は中々多かった。入院してから二三日目のことであった。私はヂアテルミーにかかるために、壁伝いに縋り歩いて隣の患者控室に行った。そこには和服を着た中年の男と、洋服を着た会社員らしい若者とが、中央に据えつけてあった大火鉢を取り囲んで座っていた。私は軽く頭を下げて二人の中に割り込んで、足を投げ出して座った。するとその男は見ていた新聞を膝から落として所在なさそうに私の方を見た。
「貴方もとうとうやりましたね。」と馴れ馴れしく話しかけられたが、私はその男がとうとうやったですねと言ったのか、やられたですねと言ったのか明瞭に分からなかったので、
「何ですか?」と聞き返したら、その男はプーッと煙草の煙を輪に吹いて、
「私も二週間ほど前に切開しましたが、実際花柳病っていやなものですね。しかしあなたももう直ぐ治るでしょう。」
その男はすっかり私を花柳病患者と思い込んでいるらしかったが、私はあまりのばかばかしさにあきれて返事をする気にもなれなかったので、ただ笑っていたが然しそれも亦無理のない話であった。 

 嘗て私の後任に内地から陽徳に赴任してきたYさんを、私が松葉杖に縋って出迎えたら、Yさんは自分は奉天の合戦で貫通銃創を蒙ったことがあったが、貴方は何処で負傷したかと同情した。また子供の時に柿の木から落ちて腕を折った老人のある書家は私を見て、貴方は何の木から落ちたかと聞かれたことがあった。人は誰でも自分を基準として物事を判断するのが普通であるから、その若い花柳病に罹った男が私を花柳病患者とみたのもまた不思議はなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 繭買い 1

 崔さんは帰ってきてからも、度々組合に出入りして、従前よりもっと親しくなった。市日などには別に用はなくても、必ず組合に寄ってよく私を見舞ってくれた。
「理事さん、足は痛みませんか? まだ松葉杖はとれませんか?」などとよく私を慰めてくれる。その度ごとに私は崔さんの親切がしみじみと嬉しかった。

私は邑内の近くの幽邃な石湯池の温泉にしばしば湯治に行ったが、何しろ生死の境にあった程の重傷であったので、やがて一年有半にもなるのに、まだ松葉杖が外されなかった。

慈恵医院を退院するとき院長が、もうこの上は温泉と電気治療のヂアテルミーが一番いいと教えてくれたが、その頃慈恵医院にはヂアテルミーの設備がなかった。丁度新聞を見ていると平壌の藤本病院にヂアテルミーの広告が出ていたので、早速私は出壌して藤本病院に入院した。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 4

 それは春のある日曜日であった。私は愛犬ゴールを連れて松葉杖に縋って陽徳川のほとりを散歩していた。すると平元道路の方から、白い周衣を着た男が暫くじっと私の方を見つめていた。
「理事さん理事さん。」と呼ばわって、手で頻りに招いていた。私はその男の方を向いて歩いた。その男もまた私の方に向いて歩いて来た。そしてだんだん接近して行ったとき、実に実に私は大きなショックを受けた。
「おゝ、崔さん!」
私は思わず声をたてて叫んだ。崔さんは私が杖に縋って捗捗しく歩けないのを見て、自分で私の傍らに駆け寄った。そして松葉杖に縋っている私の姿をしげしげと打ちまもっていたが、
「アイゴー、理事さん!」
松葉杖を握っている私の手を堅く握ったその手を通して、崔さんの熱情がグングン伝わってくるような気がした。
私の変わった姿を見て、崔さんも流石に感慨に堪えないらしかった。私も全く予期しない、恋の豹を捕った崔さんに会って急に胸がこみ上げてきた。正に万感交々の有様で、何から話せばいいか全く分からなかった。
「崔さんは何時帰ったですか?」
「ハイ、理事さん、今が帰り道ですよ。」
「そうかね、実は昨年騒擾の時、私はどうかして崔さんに会って、一口話したいと思って、随分探し歩いたですが、とうとう巡り会えなかったが、その結果がとんでもない事になったですね。」
「理事さん、もうその事は言わないで下さい。みんな私の考えが間違っていたのです。全く考えが足りなかったのです。」崔さんはもう暗然として、恐ろしい夢から醒めたような顔をしていた。
「あの時、図らずも公医さんの内で会ったが、その時はお互いに話すこともできなかったが、崔さん、貴方の傷はその後どうですか?」と私は崔さんの額に残った淡い創痕を見て聞いた。
「いゝや、私の傷はこの通り軽傷で、僅か一週間ばかりで治りましたが、あの時理事さんは大変重傷のように見受けまして、非常に心配いたしましたが、今も尚この杖で、定めしご困難でしょう。」と崔さんは心から案じていた。
「でも崔さんは老人だから、大事にしなさいね。」
「ありがとう。時に理事さん、あそこにいた時、洪さんに会いましたよ。」
「えッ、あの洪君に?」
「ハイ、その時理事さんの負傷したことを話したら、洪さんは非常に驚いて、どんな様子であったかと聞きましたから、公医さんの所で一寸会ったが、担架に乗せられて、何でも大変重傷らしかったですよと言ったら、洪さんはそれは大変だと言って、非常に心配していましたよ。」と崔さんは細細(こまごま)と洪君に会った顛末を話した。
「有難う、本当に二人に心配をかけて済まなかったね。」私は丁寧に頭を下げた。
「そして今度、私も洪さんも特に赦されて一緒に帰ることになりましたが、洪さんは是非一度陽徳に行って理事さんにもお目にかかりたいと言っていました。私も何れまた、ゆっくり組合の方にお伺い致します。」と言って崔さんは何度も頭を下げて、後ろを振り向きながら帰って行った。私は何時も変わらぬ崔さんの麗しい人情にいたく動かされた。そして私は卯の花の咲き乱れた丘を越えて行く崔さんの後姿を何時までも見送っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 3

 こうして大正八年が淋しく暮れて、翌る年の春また若草が萌ゆるようになっても、私は依然として松葉杖に縋らなければ歩行ができなかった。そして私は自分の家でも、事務室の中でも松葉杖でコツコツコツコツ歩いていたが、随分不自由であった。

 ある書物に自分の妻を亡くした男が、電車の中や汽車の中で女性を見ると、第一番に亡くなった自分の妻と同じ年頃の女性が目につくと書いてあったが、隻脚の自由を失った私はそれ以来、子豚を見ても、小犬を見ても、驢馬を見ても、牛を見ても、子供を見ても、第一番に目につくものはその足であった。また電車に乗っても、汽車に乗っても、人の足ばかりが目について仕方がなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 2

 私共はそれから三四日徹夜して看護に手を尽くしたが、更に何の効果もないので、止む無く奥さんが付き添い、三十八里の山道を氷嚢で冷やしながら、死を賭して平壌に出て慈恵医院に入院すると、直ちに腸チフスと診断され、隔離病舎に収容された。進さんが全快して退院するその日に、今度は奥さんが感染して、進さんの荷物をそのまま残して同じ室に入院した。それから二ヶ月目に進さん夫妻は子供を連れて帰ってきたが、その時は既に転勤の辞令を貰っていたので、私共が待ちわびていたかいもなく出発してしまった。

続いてOさんも転勤した。そしてその年の秋には、騒擾当時在勤していた人々は全員転勤して私一人が取り残されたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 1

 病院から久し振りに帰ってみると、陽徳の山野はもう初夏らしい彩りがみえていた。草庵の楓さえも知らぬ間に手洗鉢に覆いかぶさる程伸びていた。

 負傷以来、七十五日目に初めて風呂に入って、熟々(つらつら)自分の身体に見入ると、撃たれた右足はげっそりと肉が落ち、全く子供の足のように痩せて、生々しい弾痕が大腿部と臀部に熟れきったナツメの皮を張ったようにのこっていた。

 私は自分の変わり果てた姿を見つめて、轉た感慨無量であった。そして風呂から上がると、病床に横たわっている命の恩人進さんを松葉杖に縋って訪れた。進さんは私が退院して帰る一週間前から病みついて、毎日毎日熱が上がるばかりで、今では四十度近くになって、久方振りに私が帰ってきても、僅かに頷くばかりであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 5

 その翌日から毎日十時になると、ゴロゴロと長い廊下を輸送車で引きまわされて治療を受けにいったが、僅か射入口に残った三寸位の傷が中々治らなかった。元来刀傷は肉が接合すれば治るものであるが、貫通銃創は肉にトンネルのように穴を穿けられるので、中々肉が上がりにくい。それに公医がどうしても化膿させまいと思ってあまりに消毒しすぎて肉が硬化したために、新しい細胞が中々できないのであった。そしてX線で骨に故障がないかと写真を撮ったり、熱気療法をしたりしたが、容易に治らなかった。

 その間、富永部長や関田課長や連合会の佐藤理事や高見君が訪れてくれ、色々世話をしてくれたが身に沁みて嬉しかった。また本府の和田理財課長や里見屬や最寄組合の理事が訪ねてくれたことも嬉しい感謝であった。

 四旬に余る長い病院生活を続けているうちに、キルクを充填したような鮮やかな弾痕を残して、漸く傷口が癒えたので、私は再び山紫水明の陽徳に帰任して、あの太古そのもののような山の温泉で湯治と定めて、一先ず病院にさらばを告げた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 4

 その翌日また昨日の輸送車に乗せられて、診察室に引き出された。そしてH外科医長は、博士の院長さん立会いの上診察を始めた。臀部の弾痕を押さえてみたり、前の傷口からガーゼを引き出したり、足を捕えてグルグル廻してみたりした結果、これは大きな血管や神経や足の運動に必要な重なる筋肉が大分切断されているが、しかし骨には故障がないらしい。しかしX線で写真を撮ってみないと分からない。とに角中々重傷だと診察された。

 そこで私は寝台に横になったまま、
「どうでしょうか? 治りましょうか?」
「治りましょうかとは?」とH外科医長は私の顔を見た。
「将来跛足になるでしょうか?」と今度は具体的聞いてみた。
「それは免れないでしょう。私は貴方がこれだけの重傷でよく助かった。全く運のいい方だと思っていますよ。」と口重いH医官は言った。私は多少の希望を持っていたが、跛足は免れないでしょうと言い渡されたので、今まで少しづつ動かすことができていた足が、急に全く動かなくなったような気がした。

「それでは、この状態で進むと、何時頃になれば松葉杖に縋らないでも歩けるようになりましょうか?」とまた私は聞いた。すると今度は傍らにいた院長がもの優しく、
「さァ、それは何とも申されませんが、とに角貴方は再生したとお思いにならなければね。」とにこやかに言って眼鏡越しに私の顔を見た。

この院長の言葉に対しては、もうそれ以上何も聞くことはなかった。すべてが宿命である。私は心の中で再生、再生と繰り返して安らかな気分になり、だんだん明るい心持ちになることができた。否寧ろ今までに体験したことのない勇気と心の輝きをはっきり意識することができた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 3

 慈恵医院の前に自動車が着くと、そこには関田理財課長や佐藤連合会理事や、私が初めて本道に赴任してとき出迎えてくれた高見君が今は連合会の職員となって出迎えてくれた。私はみんなの顔を見ると、急に悲しさが胸いっぱいに込み上げてきた。

 その日は既に時間後になっていたので、ただ包帯の巻き替えだけし、私は輸送車に乗せられて、長い廊下を白衣の看護婦に、ゴロゴロゴロゴロとと引きまわされて、遂に西室の四号に収容され、茲に淋しい病院の一夜を明かした。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 2

 その翌朝邑内の人々から見送られて邑内を発った。自動車には旅団長の一行と私共と、それに二人の子供を連れた洪君の奥さんが図らずも一緒に乗り合わせた。

 春になったら必ず奥さんを迎えに来るといって出発した洪君は、今絢爛たる春に巡り会いながらも遂に迎えに来ることもできないような身体になってしまった。僅かの知人に見送られて、人目を憚るようにして、長い間住み馴れた陽徳を孤影悄然として引き揚げていく奥さんのいじらしい姿を見たとき、私は理事として一掬の涙を催さずにはいられなかった。

「奥さん。」と私が言ったら、僅かに、
「ハイ・・・。」と答えたばかりで、洪君が出発してから生まれた無心に眠っている赤ん坊を抱きしめて顔をうつぶせてしまった。私はもう胸がいっぱいになって、それ以上何も言えなかった。

 自動車は重畳たる山岳を或は上り或は下りして、爆音を立てながら三十八里の山路を、午前八時に出発して漸く午後五時過ぎに平壌に着いた。

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 1

 それから間もなく平壌から、井戸川旅団長が副官と共に、陽徳守備隊の視察に来られた。そしてその夕方、旅団長はわざわざ私の茅屋を見舞いのために訪れられた。
四方山の話から私の負傷のことに移ったとき、旅団長は煙草を吹かしながら、
「僕も若い士官のときに、大腿部と胸部とに二発貫通銃創を蒙ったことがあったが、それが今なお気候の変り目と厳寒にしびれて痛みを感ずることがあるが、それでもこの通り元気だよ。まァとに角負傷は予後が大切だね。殊に君のは僕のと違って大分重傷だ。それに弾丸は前方から射入して大腿骨の上を走って、歩行に最も大切な臀部の筋肉が切断されているようだから、大事にしなけりゃね。明日平壌に一緒に行きましょう。」とすすめてくれた。

 それで私は傷口は癒えてはいないが、身体も大分確りしてきて、途中自動車に揺られても出血する恐れがなくなったから、愈々平壌に出て慈恵医院に入院することにした。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 5

 私は読み終わって和田理財課長や土地調査局時代の工藤課長やその他、友人知己の厚意に感泣した。そして尚も四五通の手紙を見ていると、そこへ郡庁のOさんが来て、
「今日こんな義金募集の趣意書が来ましたよ。」とポケットから一通の印刷物を出して、私に差し出した。

  頃者各地に於ける不穏事件は、一部の盲動に基因するに過ぎざるも、其の民心を蠱毒し、延いて国内の秩序を紊乱(ぶんらん)したること甚だしきものあるは、遺憾に堪へざる所なり。殊に平安南道の   如きは、之が為めに幾多の惨事を惹起(じゃっき)したる事は、新聞   紙の報道に依り、既に各位の了知せらるゝ所たるを信ず。即ち左に掲ぐる諸氏は、地方の治安を保持する為に、極力之が鎮撫に尽   したりしが、多数群衆が其の勢を恃みて、暴行を敢えてするに當り、  勇進奮闘して防止に努め、遂に兇徒の毒手に殪れ、または創傷を被るに至りしものにして、其の職務に效したるの忠誠は、上下官民の  斉しく感激描かざる所なり。而して死者の遺族中には、近く夫親に   見ゆるの楽を夢想しつゝ、渡鮮の準備中突如たるこの変転に遭遇したる薄幸の寡婦可憐の嬰兒あり、或は後継者を失ひて、家運の将  来を悲観し、切に人世の無常を歎ずる老父母あり。或は纎手銃を  取り、雲霞の如き暴徒に向ひて飽くまで防衛を試み、夫君及び其の全員が壮烈の最期を遂げたる危急の場合に処して、尚ほよく武器を敵手に委せざるの措置を完ふし、纔に虎口を脱したる沈勇稱すべきの未亡人あり。此等の遺族の哀傷と殉難諸氏の憤恨とに想到し、更に又傷者の眷属近親等が憂愁の裡看護に尽せるの状況  を推察するに及びては、悲痛胸に迫り、断腸の念轉た禁ずる能はざ  るものなり。依って不肖胥謀りて、大方の同情に愬(うった)へ義金を得て、之を遺族及傷者に贈り、一つは以て死者の霊魂を慰め、一つは以て蓐中に在る傷者の苦患を慰むる所あらむとす。希くは有志各位微衷の存する所を諒とし、奮って応分の醵出(きょしゅつ)あらむことを切望の至りに不堪乃ち左に要項を具し此段得貴意候
                                     敬白
   大正八年三月
                     発起人  工 藤 英 一
                          松 寺 竹 雄
                          井戸川 辰 三
                          關 口    半
                          小 河 市之丞


              死 傷 者 氏 名

               死     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

成川憲兵分隊   陸軍憲兵中尉従七位勲六等     政池覺造  大分県
沙川憲兵駐在所  陸軍憲兵上等兵          佐藤實五郎 大分県
孟山分遣所    同                左藤 研  宮城県
沙川憲兵駐在所  憲兵補助員            金 聖奎  平安南道
同        同                姜 炳一  同
同        同                朴 堯變  同

               傷     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

寧邊憲兵分隊   陸軍憲兵軍曹           中西彌三郎 奈良県
孟山分遣所    監督憲兵補助員          朴 仁善  平安南道
中和警察署    巡査部長             田村 三郎 福島県
陽徳金融組合   理事               重松 髜修 愛媛県
                                 (以上)
 
私は読み終わって、感慨に堪えないで、何時までも黙り続けた。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 4

 また私が大正六年十月まで土地調査局に在勤していたときの知己で、その当時総督府の総務局国勢調査課に在勤中の、吉田繼衙氏から、次のような来信があった。

  拝啓 今回の騒擾事件は誠に遺憾の極みに有之候処、
  平南は特に激しく又殊に御地は暴行に及び候趣きにて、
  豫而豪氣に満てる賢兄は、官民一致して暴民鎭撫中、
  憲兵隊に於いて重傷を負はせられ、目下療養中の由、
  此時此事を聞き生等同情に不堪、和田理財課長及工藤
  課長の発起にて、別紙の通り慰籍料醵集中に有之、不日
  御送付申上候へ共、何卒精々御加療遊ばされ、一日も
  早く御全快の程祈り上候
   三月十九日        總務局   吉 田 繼 衙
   重 松 髜 修 殿

  (別紙)
  今回の騒擾事件は、事理を解せざる一部暴民の所為にして
  既に我が半島の北半に波及せんとす。誠に遺憾の極みと
  謂う可し。聞く処に依れば平安南道陽徳金融組合理事
  重松髜修君は、去る5日午前9時、同地に蜂起せる暴徒
  鎭壓の為憲兵隊に應援中重傷を負ひ、目下療養中に
  屬すと。此の時此の事を聞く、千里相隔てゝ未だ其の實情
  を詳かにし得ざるも、同君の性行を想ひて、誠に同情に
  堪えざるものなり。即ち不肖等胥謀り、慰藉料を醵集して
  同君に贈らんとす。幸に御賛同あらむことを。
   大正八年三月
                  発起人   和 田 一 郎
                          工 藤 壮 平
                          長谷川 權 作
                          馬 淵 徳三郎
                          吉 當 繼 衙
                          新 宮 忠三郎
                          鈴 木 善太郎

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 3

 そんな中、毎日、新聞を見るのと配達されてくる手紙を見るのが何よりの楽しみだった。その日もいくつかの手紙が配達されたが、その中に同窓生で満鉄に出ている杉尾君からこんな手紙が来た。

  拝啓 貴兄は嘗て在校時代より、人に優れて勇気あり、
  義侠心に富める誠に敬すべき御人格なりしと、小生は
  いつも信じ居り候、果せる哉此の度の騒擾事件には、
  名誉ある御精神を発揮せられ、世人の周く敬慕と同情
  する処にして小生は親友として、我がものゝ如く嬉しく候、
  願くは一日も早く御全快するやう、伏して願ひ上げ候 敬具
   三月二十日                杉尾眞太郎
   我が敬慕せる重松髜修様

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 2

 公医のすすめで、間に合わせの松葉杖に縋って運動をすることになったが、それとても漸く門口へ出て行くくらいであった。勿論傷口はまだ癒えていなかった。そして撃たれた右足は、切断されなかった僅かの筋肉によって、漸く前後に三四寸動かすことができるに過ぎなかった。

 生まれて二十七年間、何の不自由もなく歩いていた私が、俄かに隻脚(せっきゃく)の自由を失ったことは、かなり大きな苦痛であった。

 最初の程は、三間四間と松葉杖に縋って歩いてみたが、その度毎に、大腿の傷がズキズキ痛んで耐えられなかった。
自分の家でも、手洗いに行ったり隣室に行ったりするのに、一々妻の肩か、松葉杖に縋らなければならないのは本当に不自由であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 1

 私が負傷してから二十日目には、漸く弾丸の射出口には肉が上がってきたが、大腿部の射入口はまだ四寸ばかり穴が穿いていた。その日の夕方に起こしてもらって、一人で壁に縋って、左足一本で漸く立ち上がった。しかし立ち上がったというだけでどうすることもできなかったが、絶えて久しく仰向けに寝ていた私は、辛うじて一本足で立ち得たことが非常に喜ばしくて、二三歳の子供のように「立てた。立てた。」と叫んで、唯嬉しさに涙をわけもなくこぼした。


 それから二三日してから、暖かい春の陽ざしが縁側に届くと、私は妻と進さんの奥さんの肩にすがって、左足で飛んで歩いて縁側の椅子に腰を下ろして、久方振りに組合の裏山の保護林を打ち眺めた。折から落葉松の美しい緑の新芽が伸び揃って、その下には白い楚々たる小米花が、くっきりと草むらの中に咲き乱れ何ともいえぬ風情であった。孔子廟やあちこちの部落には、真白に李花が咲き乱れて、私が苦悩に呻吟している間に、世は何時しか絢爛の春になっていた。  

 こうして私は椅子に腰かけて、草庵の縁先から、浮世の春を眺めるのが日課であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 6

 こんな話の真最中に、洪君の義父にあたる耶蘇教の牧師が見舞いに来てくれた。
 私は早速洪君が引致されたという通知のあった事を話した。すると牧師は、
「それは理事さん、何かの間違いでしょう。今回の事件は耶蘇教信者は何の関係もありませんもの・・・ 私はそんな筈はないと思います。」と言ったものの、年若いあれがもしやとでも思ったのか、牧師の顔にはその瞬間、さっと憂色が漂った。
「実は私もその通り信じたいのですが、先刻向こうからこの通り葉書が来たのです。」とそれを示すと、牧師はじっと見入っていたが、だんだん顔が妙に痙攣してきた。
「とに角心配ですから、明日あちらに様子を見に行ってきましょう。ではどうぞお大事に。」と言って牧師は倉皇として帰っていった。私は床の上から、ボンヤリと牧師の後姿を見送った。すると入れ違いに、組合のK書記が私の見舞いに入ってきた。そして、
「理事さん、あの崔さんが平壌に護送されて行きましたよ。今ここに来る途中会いました。」と突っ立ったまま話した。
「あの崔さんが平壌に・・・。」と言ったが私は急に電気に打たれたような衝動を覚えた。そして私はもうそれ以上聞くことも語ることも欲しなかった。

 私は図らずも、生存していた組合員の田井さんの手紙と、洪君が引致されたという知らせの葉書とを一時に受け取り、今また崔さんが平壌に護送されたと聞かされて、何だか夢に夢見る心地がしてならなかった。

 私は静かに目を閉じて黙想した。すると、今まで私の眼の底にしみ込んでいた三人の姿がはつきりと描かれ、更にこの三人についての錯綜した感情が、頭の中で錦糸のように縺れて、何だか頭がシンシン痛みだした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 5

「田井さんが貴方に自殺状をよこしたのは、丁度昨年の今頃でしたね。」と漸く進さんは口を開いた。Oさんは、
「あれをみても、中々人間は死ねないものですね。」と煙草に火をつけた。
「それは誰でも死にたくはないが、死ななければならぬ事情になるとか、又死より他選ぶべき道がないとか、或いは絶体絶命というような場合になれば、死は必ずしも恐ろしいものではないが、少しでも冷静になり、心に余裕ができると、死にたくなくなって、反対にどうかして生きていたいと思うものですが、田井さんなども、夜の甲板で大空の群星を眺めているうちに、つまり自然の精にうたれて、心に余裕ができたのでしょう。」と私が言ったら、Oさんは、
「俳人としての田井さんは、或いはそうかもしれませんね!」と果敢なく消えていく煙草の煙の行く末を見つめていた。私は更に、
「お互いが一度死を決心すれば、死は敢て辞するところではないが、先日の如く、時々刻々、不安の念に襲われながら死を待つが如き心理は、全く死よりも苦痛ですね!」と進さんの顔を見上げた。
「全くですよ。あんな時の心理は、到底筆や言葉では表すことはできないです。真はただ体験によって味わうべきのみです。」と進さんは煙草の灰を落とした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 4

 拝啓 前略御免下され度候、陳者理事様へは今更御手紙を
 差上ぐる事さへ、誠に面目なき次第に有之候、実はあの時断然
 自殺を決心し、夜の甲板上をうろうろとさまよひ居り候処、図らずも
 船員に発見せられて、厳しく監視せられたる結果、之が決行の
 機会を失し候まま、唯甲板に佇みて、大海の大空に瞬ける無数の
 群星を打ち眺め居り候処、その内段々と冷静に相成るに従ひ、
 生に執着を感じ、死ぬ覚悟を以て今一働きと存じ、又元の台湾に
 渡航し、さる郵便局に勤務致し居り候、顧れば昨年出発前後に
 当っては、多大の御心配相かけ候段、今更何とも申訳なき次第に
 候、何卒平に御許し下され度候、実は何かの機会に御挨拶をと
 思ひ居り候処、図らずも今朝、新聞紙上にて「陽徳金融組合理事
 重傷を負へり」の記事を拝見いたし、誠に驚愕仕り候、
 その後の御容態如何に候や乍蔭御案じ申上げ候、何卒精々
 御加療の上、一日も早く御全快の程祈り上げ候、先ずは不取敢
 御見舞申上候、早々。
  大正八年三月八日                田 井 囚 水
  重 松 理 事 様
 
 と進さんは、一息に読み下して、みんなと顔を見合わせた。私は全く死んだと思っていた田井さんから、今こうして見舞状を受け取ったが、あまりの事に、何が何だか解らなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 3

 Oさんは私の枕元に散らばっていた手紙や葉書を整理していてくれたが、内地から送って来た新聞の帯封に挟まっていて、見残された一通の白い封筒の手紙を引き抜いて裏返して見ていたが、
「おやッ! 自殺した田井さんから手紙が来ていますよ。」と頓狂な声を出した。
「えーッ?」と私はOさんが差し出した手紙を見ると、裏面に万年筆で「台湾にて 田井囚水」と書いてあった。

「おゝ、これは紛う方なき田井さんの筆跡だ。」
「やはり生きていたのですね。」と進さんは不思議そうに手紙を覗き込んだ。
「私が言ったのが適中した。」と、その当時生存説をとなえていたOさんは、適中した自分の予想に今更の如く驚いていた。私はもう頭がガンガンになったので、進さんにその手紙を渡すと、進さんは吸いかけていた煙草を火鉢の灰に差し込んで、封を切って読み始めた。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 2

 そこへ一束の郵便物が配達されたが、それは殆ど私への見舞状ばかりであった。その頃の私は、その手紙を床の中で何回となく読み返すことを楽しみとしていた。

 今も着いたばかりの郵便物を上から順に繰って、先ず差出人の名を見ていた。するとかねて洪君を紹介した朝倉理事の葉書があったので
、私は若しやと思って胸がドキリとした。急いで読み下すと、前半は私の負傷に対する見舞いで、後半は実に今まで三人で噂していた洪君のことであった。

 私はせき込みながら読み下した。
 「貴組合より転勤したる洪君は、辞表を提出すると共にS村に於いて 、耶蘇教信者と共に不穏の行動を為し、其の筋に引致され、昨日  当地分遣所に護送されたるが誠に遺憾の至りに存候。早々」
 私は手が戦き、声がわなないた。

「やはりあの洪君がねえ。」と進さんもOさんも岡田さんも皆、私の手からハガキを奪い取るようにして見て、三人共今更のように打ち驚いた。

 私は自分の手元から離れていった洪君の身の上を思う真情から、もしやと思って心配していたが、今その知らせを見て全く夢ではないかと疑った。そして横になったまま静かに黙想していると、洪君が赴任の際、雪の馬上に祈った姿や、崔さんが火田で作った玉蜀黍を持ってきてくれた姿が、今目の前にまざまざと描かれて、腸(はらわた)を断ち切られるような気がした。

朝鮮農村物語 我が足跡 迷える者と悟れる者 1

「理事さん、傷は浅い。二週間・・・。」と言って公医さんは、私が負傷したとき励ましてくれたが、それからもう二週間は経ってしまったが、私の足は漸く腫れがなくなったばかりであった。

 私は静かに仰向けに寝たきり、全く動くことさえもできなかったが、その頃毎夜誰かが必ず見舞いに来て慰めてくれた。

 ある晩、進さんやOさんや岡田さんが見舞いに来てくれ、四方山話から又恐ろしかった騒擾の話に変わって、遂にS組合に転勤した洪君の話に移った。私は床に横たわったまま、
「洪君は何だか今度の騒擾事件に加わったような気がして心配ですよ。」と言ったら、煙草をふかしていた進さんは、
「今度の騒擾は主として天道教徒だから、耶蘇教信者の洪君には何の関係もない筈だから、無論そんなことはないでしょう。」と頭から私の言葉を否定してしまった。するとOさんは、
「それにあの洪さん、中々考え深い賢い人だから、あんな運動には加わらないでしょう。」と、進さんと同じように洪君を弁護した。
「しかしOさん、人間という奴は、一寸した機会に魔がさすと、とんでもないことをするものですからねぇ。私が負傷した時、公医さんの所で偶然出会った組合員の崔さんのことを考えてごらんなさい・・・。」
「ほんとうにねぇ。」
「あれでも警戒の時、随分探して、出会ったらよく説明しようと思っていたのに、とうとう巡り会うことができないで、あんなことになってしまったものね・・・。」
「全くあの人の好い崔さんが、あんなことになったのも、所謂魔がさしたのかもしれませんね。」と私とOさんとが話していると、今度は岡田さんが、
「しかし洪さんに限って、そんな心配は毛頭ないでしょう。」と言って茶を啜った。
「しかし私は先日から何だか洪君のことが思い出されて、もしやと思って心配しているのです。」と私は答えた。

 それから洪君や崔さんの話が絶えなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 3

 元山の丸金旅館に着いた妻は、車留基さんから手紙と朝鮮服を受け取って、その翌朝早く起き、女中に手伝ってもらって朝鮮式に髪を結い直し、その上を絹地の布で結び、朝鮮服に着替えて、すっかり朝鮮婦人に変装してしまった。

 折しも前夜から降りだした雪は、朝になってから一層激しく降りしきって、大地には既に七八寸も降り積んでいた。

 車留基さんは馬を頼んでみたが、陽徳では五十円くれてもいやだと断られたので、止むを得ず妻は車留基さんに荷物を持ってもらって、宿屋で準備してもらった二日分の食料として食パンやカステラ等を風呂敷に包み、慣れぬ朝鮮皮鞋を穿きしめて、降りしく雪の中を、飽くまで朝鮮婦人になりすまし、命を的に若い女の身空で、二十二里の険阻な山路を越えて、二日目の午後四時に無事車留基さんと共に到着したが、その途中 道を歩いて雪に道を失ったり、脅迫されたりしたが、飽くまで車留基さんの妻になりすまし、危うく切り抜けたかと思うと、また今度は警戒の憲兵から、本当の朝鮮婦人と認められ、この大雪に女の身で旅行しているのは、確かに扇動のため田舎に入り込んでいるに違いないと怪しまれ、危うく検束されんとして電話で照会され、漸くそれとわかって解放されたりしたが、全く生きた心地はしなかったと、流石に女心の恐ろしさに身を震わせながら、途中の様子をこまごまと話して聞かせた。
  
 それ以来、妻が専心看護に当ったので、傷口は毎日薄紙を剥ぐが如く、捗々しくはなかったがだんだんと肉が上がってきたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 2

 負傷した私はその当時まだ独身であったので、これより先の私の看護については、邑内の人々は少なからず心を悩ました。それは全く身動きもできない重傷であるのに、専属して看護する者がなかったからである。その当時はまだ男子は警備その他連絡のために日夜奔走し、婦人方は夫々皆幼き子供を抱えた者ばかりで、人手不足な避境の地では、全くどうすることもできなかった。

それで平壌に出て入院するとしても、この場合途中暴徒の危険があるのみならず、三十八里の山坂道を自動車でかっ飛ばすには、あまりに私の身骨は重態であった。それにまだ傷口も癒えていないので、絶対安静を要するというので全く困り果てた。

 そこで私が負傷してから五日目に、邑内の人々が協議して元山に看護婦の派遣方を交渉したが、既に当地の状況を新聞で見ていた看護婦達は、例え日給十円でも二十円でも、途中も危険だし、それに生命には換えられないといって、誰も応じてくれる者がなかった。

 茲に万策尽きて、更に邑内の人々と協議した結果、かねて私が知っていた現在の妻に京城から来てもらうことになった。それが奇縁で彼女と遂に結婚したことも、私にとっては誠に奇しき因縁であった。

 その時私は危険の域を脱したというにすぎない状態にあったので、邑内の人々は協議の上、彼女に、
「十二日元山に着け、当方から迎えに行く」と電報を打って、Oさんが使っていた試作場の常庸人夫である車留基さんに、金郡守夫人の朝鮮服一切を借りて、それを元山に持たせて、朝鮮婦人に変装させて連れてくることになった。

 まだその頃は中々不穏な状態で、T分遣所長がハバロスクに出動するために元山に出るのさえも、五名の憲兵や補助員に護衛されて行ったくらいだから、若い女の身で果たして無事に着くことができるであろうか、或いは途中で変装を見破られて非業の最期を遂げはせぬであろうかなどと、邑内の人々もいろいろと案じてくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 1

 私が負傷してから丁度一週間目に、T分遣所長は突如シベリヤのハバロスクに出動命令がきたので、急遽準備を整えて出発することになった。

 その朝分遣所長は軍服を着て、挨拶のために、ささやかな私の庵を訪ねてくれた。そして私の居間に上がってきて、仰向けに寝ている私の姿を見て、
「理事さん・・・」と、こう言った分遣所長の両目には涙が光った。
「貴方には、今回の騒擾事件については、最初よりいろいろとご尽力にあずかりました。その上に貫通銃創まで蒙られたことにつきましては、私は分遣所長として満腔の熱誠を以って同情と感謝の意を表するのであります。それにまだ貴方の痛々しい負傷の全快しない中に、突如私は予て出願していたハバロスクに急遽出動せよとの命令に接しました。何事も宿命です。この上はどうか専心療養され、一日も早くのご快癒を祈ります。」と改まって挨拶を述べたが、分遣所長は更に私の傍らに進み寄り、手を堅く握ってハラハラと涙をこぼした。
 さなきだに負傷のために感傷的になっている私は、思わず不覚の涙にかきくれた。やがて分遣所長は立ち上がって、
「それでは随分お大切に・・・何れあちらへ着いたら詳しい手紙を差し上げます。」と言って最後の敬礼をして、ハンカチで目を拭いながら出て行った。 
 私はただ床の中から目送したが、胸が一ぱいになって、何も言うことができなかった。

 まだその当時は、次から次へと騒擾が波及して、各地に不穏の空気が漲っていたので、分遣所長夫妻は憲兵三名と補助員二名に護衛されて、途中馬息嶺の険を攀じ越えて、馬転洞に一泊して翌日辛うじて元山に着いたのであった。

2010年5月15日土曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 3

 そこで私は三月四日に、T分遣所長の慌ただしい来訪をうけ意外なことを聞かされたことや、在留民の協議会の顛末や、その夜憲兵隊に全員引き揚げて、一同が協力して警備に就いたことや、翌日三月五日午前九時に、数百名の暴徒が潮の如く襲撃殺到して来たので、私は大声を挙げて、「ツロオヂマラ(はいってはいけない はいってはいけない
)」と叫んで、これを制止したが、遂に及ばず、絶体絶命となったその刹那のことや、遂に貫通銃創を蒙ったことを詳しく話した。 

 その間進さんとOさんとは、熱心に私の陳述を聞いていたが、時々興奮したような面持ちで私の顔を見つめた。そしてN検事は、
「証人は本件に関しては、もう言うことはないか。」と又私の顔をまじまじと見つめた。私は、
「この上、別に申し上げることはありませんが、あの際私共のとった方法は誠にやむをえない、機宜に適したことであるということを付け加えておきます。」と答えた。

 N検事の傍らに跼んで、縁先で筆記していた書記は、その調書を私の前に差し出した。すると又検事は、
「よく見て、それに相違なければ、署名捺印しなさい。」と言った。私は一通り目を通した後、Oさんが墨をつけて差し出してくれた筆を受け取って、ベットに横たわったまま署名して、静かに捺印した。

 それが済むと、N検事も随行の書記も、靴を脱いで上がってきた。そしてN検事は全く一私人となって、
「理事さん、本当にご苦労でしたねえ。負傷は如何ですか?」と、親切に私の労をねぎらってくれた。そしていろいろと雑談の後、N検事は今からまた郡守の所に行くと言って、丁寧に挨拶して立ち去った。

 それから私は進さんとOさんと三人で、尋問された事柄や一私人としてのN検事の言葉をいろいろに味わってみた。

 折から戸外は、綿を千切って落とすように春の雪が降っては消え、消えてはまた降っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 2

 家に帰ってからの私の看護やその他万端の世話については、主として進さん夫妻と郡庁のOさんとが当ってくれることになった。

 丁度その日から、私の容態は幾分よくなって、漸く危険の域を脱することができた。

 大邱の法院から、応援のため出張してきたN検事は、私共が憲兵隊を引き揚げて家に帰ると、今まで引致されていた二百余名の取調べを開始した。九日には証人として、責任者たるT分遣隊長と郡守と、それに私とが取り調べられることになった。

 その日の午後一時頃になると、N検事は一名の書記を従えて、私に名刺を差し出して、私を今回の事件の証人として、臨床尋問する旨を厳かな態度で伝えた。

 折からそこへ看護に来ていた進さんとOさんとは、はたして私がどんな陳述をするか、またN検事が如何なる取調べをするかと、心配らしい顔をして、N検事に礼をしたまま黙って聞いていた。

 N検事は正服を着て玄関に突っ立ったまま、形の如く私の住所、職業、氏名、年令を聞き、更に何年何月何日に当地に赴任したか、また赴任以来理事の職にあったかと聞かれたから、私はそれに対して簡単に答えた。するとN検事は、
「証人は、今回の騒擾事件に負傷したというが、はたして事実か?」
「ハイ、この通り貫通銃創を蒙ったことは、事実であります。」と私は血の滲み出た包帯を示した。
「然らば証人は、本件について負傷するに至った事実を詳細に申し立てよ。」と更にN検事は私の顔を見つめた。

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 1

 三月六日の朝兵隊が到着してからは、地方人は主として憲兵隊内の仕事を助け、憲兵と兵士とは積極的に外部の偵察並に警備についた。

 私の負傷の容態は一進一退で、全く生死の境を彷徨っていた。六日の西鮮日報や京日や大朝や大毎には、早くも「陽徳金融組合理事重傷を負えり」と見出しを掲げて報道されたので、各地の友人知己からは、見舞いや照会の電報が頻頻と届いて、忽ち六十余通に達したが、私の容態は一喜一憂で、既に負傷以来四日を経過したが、ただ仰向けに寝たばかりで身動きさえもできなかった。

 粥の世話や大小便の始末は、主として進さんの奥さんが面倒を見てくれたが、私はこうした状態が何時まで続くことかと思うと、奥さんに対して本当にすまないと心を痛めた。

 それから間もなく邑内の付近一帯が静穏に帰したので、兵士に休養を与えるために、憲兵隊の宿舎を空けることになって、地方人は八日にそれぞれ自分の住宅に帰っていった。 
 私もその日の午後に、嘗て乗せられた担架に乗って、再び、灰かぐらを立てた我が家に帰ることができたが、誠に悲しい嬉しさであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 5

 こうして恐ろしい不安の一夜が過ぎて、四方の山々が紫色に明けると、まもなく自動車の爆音が勇ましく響いて、応援の平壌連隊の兵士がS少尉に引率されて、十二名来着した。

 憲兵隊の庭内では、死のドン底に突き落とされて、刻一刻と死期を待つがごとき心持ちを抱いて、ただ兵士の到着を待ちに待ちたる人々によって、万歳が高唱された。一同は相擁して感激に咽び泣いた。

 進さんは慌ただしく私の室に駆け込んで、
「重松さん、もう大丈夫だ。兵隊が来た。」と大きな声で言ったが、両目には涙が光っていた。

 私は床に横たわったまま負傷の苦悩もうち忘れて、思わず万歳と叫んだ。涙が止めどもなく溢れ出た。

 不安な一夜を一睡だにもせず、看護に力を尽くしてくれたE夫人もN夫人も、腰の弁当を投げ捨てて感激のあまり相抱いて声をたてて泣いた。

 温突の障子には、早春の柔らかい春の陽ざしが、漸く差し込んできた。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 4

 宵から一睡もしないで看護に付き切ってくれたE夫人はN夫人に向って、
「奥さん、今もし暴徒が襲撃してきたらどうしますか?」と聞いた。するとN夫人は緊張した面持ちで、
「理事さんはこの通りの重傷で歩くこともできないし、それかといって女の身で私達が背負って、他に非難することは尚更できませんわね。だから気の毒でも、蒲団にくるんだままこの押入れの中に一時匿しておいて、私達は灯りを消して、兵隊が来るまで裏山に避難していましょう。」と答えた。すると今度はE夫人が、
「本当に重松さんは痛ましくても、この場合それより他に仕方がないですわね。それにしても食べ物だけは準備しておきましょうね。」と言って二人の奥さんは、握り飯をハンカチに包んで、それぞれ帯に結び付けて、いざという時の準備をしていた。

 二人の奥さんの会話を耳にして、私は今に押入れの中に入れられるであろうが、もしそれを暴徒にでも発見されたらどうなるだろうかと、何だか情けなくてたまらなかった。

 そしてこの非常の場合に、どうせ死すべき私のために、貴重な人手を割くことを本意なく思って、帽子掛けにかけてあった私の血に染まった挙銃を見て、幾度か自殺をしようと思ったが、足が立たないのでどうしても挙銃を取ることができなかった。もしその時、私の足がた立っていたなら、恐らく自殺していたに違いない。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 3

 夜の十時頃には、更に熱が四十度二分まで昇騰した。
私は熱に浮かされて、
「しまった。やられた。崔さん・・・・・」などと、時折うわ言を言って看護についていた婦人達を驚かせた。

 夜警の人々は時折外から小さな声で私を呼んで、様子を聞いたり、慰めてくれたりしたが、十二時頃には私の容態が愈々危篤になったので、分遣所長は進さんと立会って私の枕元に座った。そして進さんは、
「重松さん、きついですか?」と訊ねた。私は僅かに頷いた。するとT分遣所長は万年筆に手帳を取り出して、
「理事さん、言い遺すことはないかね。」と私の顔を覗き込んで暗然とした。私は自分でも、これではとても助からないと観念していたので、
「別に何もないが、ただ組合の事をよろしく・・・。」と言ったら進さんは、
「重松さん、確りしなさい。どうにか今宵一夜が明ければ、明日の朝は必ず兵隊が自動車で到着することになっているからね。」と励ましてくれた。丁度その時外からK上等兵が駆けつけて来て、
「所長殿、ただ今十数名の怪しい人影が、正門の方に近づいてきました。」と早口で言った。所長は、
「何ッ!」と立ち上がって奥さんの方を見て、
「それでは奥さん、重松さんをよろしく頼みます。」と言って進さんと二人で、急いで出て行った。

 それから私はだんだん昏睡状態に陥ったが、谷間のせせらぎから取ってきてくれた氷を氷嚢に入れて、絶えず冷やしてくれたその効果が漸くほのみえて、午前四時頃には熱が三十八度五分に降下し、意識が幾分はっきりしてきたので、私は静かに目を閉じたまま黙想していた。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 2

 その日の夕方から、負傷した私の右足は、爪先から腰にかけて紫色に鬱血し、皮が張り裂けんばかりに腫れあがった。そして大腿部の神経が弾丸のために切断されたので、益々痛みは激しくなり、その上に熱は三十九度までも上がった。
 
 午後八時頃、正服にゲートルを巻いた進さんが、静かに私の様子を見に入ってきて、
「重松さん、痛みはどうですか?」と聞きながらポケットから二通の電報を取り出した。
二通とも官報で、一つは冨永第二部長(今は故人となられた富永平北警察部長)で、他の一つは関田理財課長(現朝鮮金融組合協会常務理事)よりきたものであった。
「メイヨノゴフショウ二タイシフカクドウジョウス トミナガ」
「メイヨノゴフショウ ハヤクゴカイユヲイノル セキタ」
と進さんは私に読んで聞かせてくれた。私は、
「有難う。もう道庁に報告してくれたのですね。」と言って、部長や課長のご厚意を心から感謝した。進さんは、
「ええ、今日午後の二時頃に、漸くその要領だけは電話で知らせておいたのです。とにかく今夜が一番危険て゜すよ。」と言って私の額に手を当ててみて、
「これは中々熱が高いが苦しいですか?」と心配そうに言った。
そこへ公医がOさんに導かれて診にきた。 
包帯の上に血が滲み出ているのを見ると、
「出血は大分止まったようですが、足が大変腫れましたね。」と言いながら包帯を巻き換えて、静かに私の脇に検温器を差し挟んだ。やや暫くして進さんが、
「こんなに腫れていても大丈夫ですか?」と聞くと、公医は差し込んだ検温器を取り、ランプの灯りに透してみて、一寸首をかしげて、
「大分熱が高いから心配ですよ。今三十九度八分あります。まァこの鬱血が化膿しなければいいですが、もし化膿でもすれば大腿部から切断しなければなりません。それで私は最初から随分厳重に消毒しているのですが・・・ 多分大丈夫でしょう。」と言って公医は帰っていった。

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 1

 屠(ほふ)られた豚の生血で染め抜いたような三月五日の赤い夕日が高原地帯に下らんとして、西天一帯琥珀色に黄金色となり、更に真紅色を呈してきた。釣瓶落としに夕日が沈めば、忽ち暗黒が四方から迫ってきて、何時しか空には点々と碧寶石を鏤(ちりば)めたように無数の星が瞬いて、俄かに寒気を感じるのであった。

 その夜の邑内には流言蜚語が盛んに行われて、内地人は極度の不安に襲われた。そして女性や子供を除いた男子は、悉く奮起して警備に就いた。正門と裏門には夜もすがら篝火(かがりび)を焚いたが、それが突兀たる山岳に映じて、物凄くも亦壮烈であった。

 私は宿直室では危険であるというので、憲兵隊の宿舎に移されたが、宿舎の中央には、小さく燈火が点ぜられたが、入口や窓には毛布を二枚も三枚も重ねて吊って、絶対に外部に光線が洩れないように設備した。そして私共の周囲には、若し万一外部から射撃されても、弾丸が通らぬように書類を積み重ねた。