田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月28日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 12

 私は包帯姿の崔さんを眺め、自分の負傷を打ち見守って、胸も張り裂けんばかりであった。
 その時担架を担ぎ上げた民雇は、何の遠慮もなく、ずんずんと診察室から運び出した。頭に包帯をした崔さんは、よろめきながら玄関まで出て来たがただ無言のまま突っ立って、目に涙を一杯溜めていた。そして私の担架が公医の門を出ようとすると、
「理事さァん! アイゴ!」と崔さんの慓えた声が悲しく聞こえた。私は、全く心臓でも抉られるような思いがした。

 先刻民雇に担架を下ろされ逃げられた桑畑に来た時には、もう崔さんの悲しい声は聞こえなかった。私は担架の上で、毛布を被ったまま戦死した分隊長や、頭を包帯していた組合員の崔さんに対するいろいろの記憶を辿って、全く夢のような気持ちになってしまった。

 担架の側に付き添っていた進さんは、歩きながらソーッと毛布を開けてみて、
「ああ、また血が包帯に沁み出たですねぇ。」と言った。
Oさんも亦、
「それに何だか顔色も、前より幾分悪くなったようですねぇ。」と心配そうに進さんの顔を見た。
「なるべく静かに、担架の揺れないように歩け。」と今度は後ろについていた上等兵が、民雇を窘(たしな)めるように言ったが、私はもう夢か現か全くわからなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 11

公医は傷の消毒が済むと、また薬をつけたガーゼを傷口からグングン押し込んで、その上を固く固く包帯して、
「これで出血が止まってくれればよいが、もし止まらなければそれこそ大変です。」と進さんに言った。

 ここで三十分位治療を受けて、再び私は担架に乗せられ診療室を出ようとしたその時、今まで堅く閉まっていた隣室の襖が不意に一尺ばかりスーッッと引き開けられた。それが全く不意であったので、人々は電気にうたれたように緊張して、皆一斉に襖の開いた隣室に視線を注いだ。

 私も担架に乗せられたまま思わず襖の開いた方を注目すると、其処には頭に包帯した一人の老人が座って此方を向いて何者かを探し求めていた。そして担架の私に目を注いで、二人の視線がハタと合ったとき、私は実に、実に大きなショックを受けた・・・。それが前夜以来、私が心配して探し回っていた天道教信者である組合員の崔さんであったのだ。私は全く夢中で、
「おお 崔さん!」と叫んだ。
「アイゴー、理事さん!」と崔さんも肺肝から声を絞って私を呼んだ。

 天道教信徒の崔さんは、とうとう私に巡り会わないで、この運動に参加して、遂に負傷してしまった。それが赴任以来最も親しくしていた組合員の崔さんであっただけに、私の驚きと悲しみとは一入であった。そして今ここで図らずも傷ついた二人が互いに巡り会って深い感慨に打たれたことは、まことに不思議な因縁といわねばならなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 10

 高橋さん夫妻は三月三日に、初めて郷里仙台から畜産組合の技手として遥々赴任してきて、引継ぎの真最中に今回の騒擾に会い、前任者も亦赴任も出来ず引継ぎも出来ず、そのまま二人の畜産技手が滞留していたのであった。

 その内地から来たばかりの高橋さんの奥さんが、か弱き女の身で、畑の中を一目散に横切って、公医のうちに粥を持って来てくれたことは、いたく他の人々を驚かせ、また私を感激せしめた。

 そして奥さんは粥をガーゼに泌ませて、それを私の口に含ませてくれたが、渇しきった私はガーゼで潤すくらいでは到底堪えられなかったので、包帯の手伝いをしていた奥さんの手から粥の鍋を奪い取って、口をつけて正にそれを飲まんとした。その瞬間奥さんは慌てて、
「ああ、それをみんな飲んではいけません。」と言って私の手から鍋を取り返そうとしたが、私が放さなかったので、とうとう奥さんは鍋をひっくり返して、タオルで素早く拭き取ってしまった。そして奥さんは、
「ああ、驚いた! これを全部飲まれたら、それこそ出血して、ほんとうに取り返しのつかぬ事になるところでした。まァよかった・・・。」と言ってホッとしたようだった。
「戦争などでも、負傷して出血すると非常に渇するものですよ。そしてその時に水でも沢山飲ませようものなら、皆バタバタ斃れてしまいます。本当に危ないところでしたね。」とS上等兵は空になった粥の小鍋をうち眺めた。

 私はいくら渇したって、鍋まで奪い取って飲もうとした自分を浅ましく思った。渇し切っていたので、全く無意識に手が出たのであったが、もしその時奥さんにそのような心得がなく、私の飲むがままに任せていたら、恐らく私は斃れていたに違いない。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 9

 進さんは歩きながら、ソーッと毛布をあけて私の顔をのぞいて、
「重松さん、今少しだ。しっかりしなけりゃいけない。」と励ましてくれたが、私は進さんの顔を見上げて、ただ頷いた。すると進さんはまた元のように静かに毛布を着せた。

 硬く凍った小さな細道をドカドカと担架を運んで公医の所に着いた。すると待ち構えていた公医は、
「どうぞ、こちらへ。」と一室の温突に導いた。
担架が玄関の前で下ろされると、進さんとOさんとは、私を毛布にくるんだまま抱えて静かに温突に下ろした。公医は縁側に突っ立っていたが、私の乗ってきた担架の血を見て、
「おや、これは大変な出血だが、理事さんは気力がありますか?」と進さんに聞いた。私は自分で顔の毛布を押しのけて、
「公医さん、大丈夫ですよ。」と僅かに答えた。辺りを見回すと、公医の庭先の植込みには、頭髪を刈った天道教徒が十五六人ほど右往左往していたが、何れも見知らぬ者ばかりであった。そして隣りの室からは、何人かの苦悩に呻吟している声が聞こえてきた。それは勿論今回の騒擾に負傷した暴徒の一味で、庭先にいるのは彼等の友人知己であった。

 そんな具合で公医のうちは、まるで野戦病院のようであった。進さんとOさんは私の看護に付き添い、K、Sの両憲兵は私共の身辺を警戒保護の任務に当った。公医はキラキラ光ったニッケル製の治療箱と、何本かの薬品の瓶を持って私の側に来た。そして真紅に染まった血の包帯をグルグルと解きはじめたので、私は、
「公医さん、隣室の負傷者の治療は皆済みましたか?」と聞いた。公医は、
「今全部済んだところです。」と軽く頷いて、ズンズンと包帯を解いていった。

 私はそれを聞いて、この場合何とも言われぬ心の安らかさを感じたのであった。包帯を解いてしまうと公医は手早く、私にベットリとくっついている血糊を脱脂綿で拭いとって、じっと傷口を見つめていたが、やがて大きな丸い帽子瓶の中から、ピンセットで長いガーゼを挟み出して、アルコールに浸けると、それを前後の傷口にグングンと差し込んで引き出す。今度はまた別のガーゼをヨヂムの中に浸して、同じように両方の傷口に押し込んだが、私はピリピリと沁みて、肉を焼きつけられるような痛みを感じた。今までに夥(おびただ)しき出血のために、私は頻りに渇きをおぼえてきた。その時丁度、高橋獣医の奥さんが、女の身で憲兵隊の官舎から、単身で粥を小鍋に入れて持って来てくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 8

 担架の上は鮮血で血の海のようになった。腰から背にかけて、ヌルヌルと血糊がくっついたが、私自身ではそれをどうすることもできなかった。ただ、目を閉じて静かに来るべき運命を待つより他に仕方がなかった。その時丁度私が運ばれてきた反対の方向から、
「おお、あれだあれだ。あんな桑畑に担架を下ろしている。」という声が聞えた。
それは正しく進さんの声であった。
私は絶望のドン底から救われたような気がした。
「担架を置いて民雇は一体何処へ行ったのでしょう。」と言ったのは確かにOさんの声であった。
「おお、あそこの黍垣のすそに跼んでいるのは、あれは民雇だ。」とK上等兵の声がすると今度は、
「おい、民雇、オラーオラー(来い来い)。」とS上等兵が大声で叫んだ。そして四人で私の担架の側に駆けつけると、進さんは私が頭から被っていた毛布をあけてみて、
「これは大変な出血だ。早く連れて行かねば斃れてしまうかもしれない。」と言って民雇を呼びつけた。黍垣の根に身を潜めていた民雇は、先刻の慌ただしい足音をてっきり暴徒の一隊だと思って、地に這いつくばるようにして跼んでいたが、護衛の人たちであったので嬉しそうに走ってきて、慄(おのの)きながら、
「アイゴー、恐ろしかった。」と言って担架を担ぎ上げた。

 それを四人で前後左右を護衛して、公医の家にと急いだ。担架の横に付き添っていた上等兵は、
「君たちは我々の準備ができるまで、なぜ待っていなかったのだ。そして何処を探しても見つからなかったが、一体どちらの道を通ってきたのか?」と言葉鋭く聞いた。
「ヨンガミさんが直ぐ来ると思って、裏門から近道を通ってきたのです。」と一人の民雇が答えた。すると今度はS上等兵が、
「なぜあんなところに担架を下ろしたのか?」と質問した。
「本通りの酒幕の前に差しかかると、中から暴徒が、「待てッ、止まれッ」と怒鳴ったので、恐ろしくて夢中でその前を駆け抜けて、桑畑の中に逃げ込んだが、後から何だか暴徒が追っかけてくるような気がしたから、担架をそこへ下ろして、向こうの黍垣の陰に隠れていたのです。」と又一人の民雇が弁解するように答えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 7

 本通りは尚右往左往している暴徒の足音が聞こえていたが、私を護衛する者はまだ追いついてこない。そのうちに町角の酒幕の前に差し掛かると、その中から、
「おい、待てッ! 止まれッ!」と大声で怒鳴った者があった。それはもちろん酒幕で酒をあふっていた暴徒の一味であった。
 民雇はただ恐ろしさに黙って担架を担いだまま暫く小走りに駆けって、投げるように担架を下ろすと、自分達はバタバタと何処かへ隠れてしまった。

 担架を下ろされた私は、血に染まった足の先が、冷たく凍った大地に触れてヒヤリとしたので、顔の毛布を押しのけて目を開けてみると、大空には漠々たる浮雲が流れて、午後の陽射しが冷たくぼんやりと輝いていた。直ぐ目の上には葉のない桑が枯れ木のようにつっ立っていたので、それが桑園であることが分かった。桑園の向こうの破れかかった黍垣のすそには、二人の民雇が真っ青な顔をして小さく跼(せぐくま)んでいた。

 私は今はこれまでと思って、また静かに毛布を被った。その時急に道路に面した側で、ドカドカと慌ただしい足音が聞こえて、それがだんだんと私の方に接近してきた。今まで黍垣に身を潜めていた民雇は「アイゴ!」とふるえた異様な声をたてた。  

 絶えざる出血のため今は全く気力を失った私は、その慌ただしい足音や民雇の異様な声を聞いてただ事ではないと思った。
 暴徒? 護衛? 生? 死? 私は静かに観念の目を閉じたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 6

 それから暫くして、私は左の太股がチクリとしたので目を開くと、枕元に座っていた進さんが、
「重松さん、しっかりしなさい。」と言って私の手の脈をみた。公医さんは私の上に覆いかぶさるようにして、グングンと食塩注射をしていたが、ややあって、私はだんだんと意識を回復して、漸く傷の痛みを感ずるようになった。

 一通りの手当が済むと公医は、ここでは思うように治療ができないから、一応公医の家に連れてくるようにと言って帰った。公医の家は、憲兵隊から数町離れた全く反対の方向で、邑内の中を通り抜けなければならなかった。


 然るに一時退去したる数百名の群衆は、邑内の各所に屯(たむろ)しているので、この際私を公医の所に連れて行くことの可否については、かなり議論があったが、このままにしておけば斃れてしまう危険があるので、遂に決死隊を組織して、私を護衛して行くことになった。その決死隊が進さんとOさんとS、Kの両憲兵上等兵の四人で、私の前後左右を警戒することになった。そして私は俄か作りの戸板の担架に乗せられて、死人のように頭から毛布を被せられた。

 そしてまだ護衛の準備が出来ないうちに、二人の民雇(郡庁の小使)はさっさと担架を担いで、憲兵隊の裏門から急ぎ足に出たが、護衛の人たちは未だ追いついて来る気配はなかった。組合の横を通って邑内の本通りに出ると誰かが、
「アイゴ! 担架から血が落ちている。」と言ったら、また一人が、
「アイゴ! 良い理事さんが死んだ!」と言った。その声は確かに雑貨屋の金奉一さんの声であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 5

 私は公医の「傷は浅い、二週間・・・。」という言葉を聞いてから、非常に安心して、今まで緊張しきっていた精神が一時に緩んできたためか、漸く傷の痛みを感ずるようになった。そして絶えざる出血のために、だんだん顔色が蒼白となったので、公医は極少量の葡萄酒を飲ませて、腰のあたり一面にくっついている鮮血を脱脂綿で拭いとってくれたが、それでも尚両方の傷口からはブクブク、ブクブクと真赤な血が湧き出て止まらなかった。

 公医は傷口を消毒して、ガーゼを何尺か傷口に押し込んだが、なお依然として出血は止まなかった。それに負傷の箇所が大腿部から臀部であるので、血を止める方法がなかった。そこで咄嗟の場合、公医としては唯むやみに、傷口を包帯で縛るより他に方法がないらしかった。

 そして漸く私の仮包帯が済むと、正門の方で、
「逆襲ッ!」と叫んだK上等兵の声が破れ鐘のように響いた。今まで私を取り巻いていた人々は、再び前線に進み出たが、進さんとOさんは、私の看護と護衛のために残ってくれるようにとT分遣所長より話があったが、私は手を振ってこれを遮り、
「いーや、進さんもOさんも、この場合私に構わず前線に出て下さい。早く、早く・・・。」ととぎれとぎれに言った。実際生死の境を彷徨っている私は、素より生をきしていなかった。そしてさなきだに兵力の不足であるこの際、負傷せる私のために進さんとOさんを留めることは、どうしても四囲の事情が許さなかった。進さんは、
「一ッ時だから、この場合しっかりしていて下さい。」と心を後に残しながら、Oさんと前線に走り出た。

 私は唯一人宿直室に残されたが、絶えざる出血のためだんだん意識が朦朧としてきた。折から夢か現(うつつ)か、物凄い喚声が裏山に轟いて、数発の銃声が聞こえた。私は血海の中に全身朱に染まって呻吟していたが、遂に全く意識を失ってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 4

二十分も経つと、韓公医が白い予防服を着て駆けつけ、私を起こして腰のあたりを見ていたが、紺サージのズボンの臀部が、十七形の時計大ほどズタズタに破れて、そこからシュウシュウと噴水のように鮮血が湧き出ているのを見つけ、
「ハハァ、これは射出口ですねぇ。大分傷が大きい。」と呟きながら、
「盲貫でなければよいが・・・。」と言って再び私を仰向けにした。

 私は自分で洋服のズボンを脱ごうとして、右の大腿部をさすってみた。すると右手に生温い血汐がヌルヌルとくっついて、全面の中央部に人差指が入るほどの穴があいているのに気がついた。
「おお、ここもやられている。」と言ったら、韓公医は急いで脱脂綿で血汐を拭いとっていた。それは膝から四寸ばかり上の前面に直径三分位の穴があいて、そこから真紅の血がプツプツと吹き出ていた。
「ははァ、これが射入口ですね。これは前から狙撃されたのですよ。右腿部の前面から右臀部にかけて、約一尺四寸の貫通銃創ですねぇ。」と韓公医は言った。

「公医さん、負傷の程度はどうですか?」と私は公医の顔を見つめた。公医は脱脂綿で、迸(ほとばし)り出る鮮血を拭いながら、
「理事さん、大丈夫、傷は浅い。二週間で全治しますよ。」と言って私を励ましてくれたが、更に分遣所長と進さんとを顧みて、一段声をひそめて、
「実際これは中々重傷ですよ。もし出血が止まらなければ、危険ですね。」と言ったらしかったが、私には充分それが聞き取れなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 3

 私は進さんの背に担がれて、事務室内の宿直室に一先ず収容され、柿色の軍用毛布の上に寝かされたが、泉の如く流るる血汐で、毛布は見る見るうちに真赤に染まってしまった。進さんは、
「重松さん、しっかりし給え。」と言って私の右の手をしっかと握ったが,両の目からは熱い涙がはふり落ちた。Oさんも駆けつけて、
「重松さん、大丈夫だ。しっかりしなさい。」と言って私の血に染まったゲートルを解いて、泉の如く流るる鮮血を拭いながらハラハラと落涙した。
「なァに、これくらい、大丈夫ですよ。」と私は集まってきた人々の顔を見上げた。そこへT分遣所長が皆の中を押し分けて、
「おお、重松君、やられたか。しっかりしてくれ。よくやってくれた。」と言って私の手を固く握って、顔を背けて涙をハラハラと落した。そして尚も、
「君は全く我々のために犠牲になってくれたのだ。君だけを決して殺しはしない。気を確かに持っていてくれ給え。」と言って又手を固く握りしめて、落つる涙を軍服の袖で押し拭った。官舎に非難していた奥さん方も宿直室に詰めかけた。子供を抱いて駆けつけた進さんの奥さんは、
「先刻まで元気であった重松さんが、私達のために働いて負傷した。」と言って子供に顔を押しつけて、よよと泣き伏した。

 そのうちに多数の人々が駆けつけて、私のゲートルを解いたり、上着を脱がせたりしてくれたが、それでも私は唯右足が動かないばかりで、ひとつも重傷を負うているとは思わなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 2

 負傷して倒れている私を見つけた暴徒は、矢庭に棍棒を振って襲ってきたので、私は倒れたまま日本刀を盲滅法に振り回して防御したが、最早その時は、私の生命は風前の燈火同然であった。私は今はこれまでと観念の目を閉じようとした瞬間に、事務所の入口に突っ立って、こちらを睥睨(へいげい)していた進さんを見つけたので私は思わず、
「おい、進さん進さん」と続けさまに叫んだ。進さんは呼ぶ声に、ハッと気がついて、
「おお! やられたか、しっかりせい!」と叫びながら勇敢にも身辺の危険を冒して、私の傍に這い寄って、後ろから私を抱き起こし、耳元で、
「しっかりせい!」と言って私を背に担ぎ、死地から漸く救い出してくれた。その時さしも頑強に襲撃してきた暴徒も漸く退却しはじめたが、騒乱の巷であった憲兵隊の構内はなお凄愴(せいそう)な気分が満ち満ちていた。

かくて暴徒が全部憲兵隊の付近から退却してしまうと、辺りはまた元のしじまに返った。そして唯、構内を整理するために、憲兵や地方人や補助員が相助けて、右往左往する靴音ばかりが聞こえてきた。

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 1

 充填していた挙銃の弾丸が無くなったので、私は一応憲兵隊の構内に引き下がろうとした。丁度その時私の目の前に、灰色の防寒帽を被った大男が、不意に私の傍に走り寄り、何か突きつけたなァと思った瞬間、大きなゴム製の弾力のある棒で、イヤと言うほど打ち殴られたような気がして、二三歩憲兵隊の構内にたじろいでバッタリ其処に倒れた。
「何ッ くそッ! 今倒れてなるものか。」と気を張って立ち上がったが、また倒れた。そして倒れては起き、起きてはまた倒れたが遂に私は起つことができなかった。

 私の倒れた跡には、点々と鮮血が滴って、右足に巻いていた柿色のゲートルは、真赤に染まった。
「しまった! やられた!」と私は思わず叫んだ。そして進さんから貰った兼氏の日本刀を杖にして立ち上がったが、既に右腿部に負傷していた私は、鮮血淋漓として迸(ほとばし)り、最早一歩も歩むことができなかった。

2010年4月26日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 5

 こうして私は三回目の偵察を終えて、分遣所に帰ってきた。すると夜は何時しかほのぼのと明けそめて、大空の明星がだんだん薄れると、三月五日の陽差しが、裏山の保護林の上を美しく染めた。

 私は更に組合に行って、宿直の書記を起こし、全ての注意を与えて、再び分遣所に帰ってきた。そして婦人方が炊き出してくれた握り飯を食べたが、その時同じく私の側にいて朝ごはんを食べていたK上等兵は腕時計を見て、
「さあ、今が九時だから、そのうち必ず暴徒の一隊が押し寄せてきますよ。」と言った。するとOさんは、
「どの方面から来るでしょうか?」と訊ねた。
「それは五柳洞の方面から、間道を経て来つつある群衆が、先発隊と合同してきますよ。今S上等兵が偵察に出ているから、帰れば必ず動静が分りましょう。」とK上等兵は簡明に言って立ち上がった。食事を終えた私はOさんに、
「Oさん、成川では分隊長がやられたが、お互いも全くどうなるかわからないね、別れの杯だ! その水を一杯汲んでくれ給え。」と言ったら、Oさんは、
「分隊長がやられたって?」と驚きの目を見張りながら、水差しを右手で握って茶碗に注いでくれたので、私もまたOさんの茶碗に一杯注(つ)いだ。二人は無言のまま飲み干して、その茶碗を机の上に置くと同時に、偵察に出ていたS上等兵が宙を飛んで正門から走り込んだ。そして庭内で警笛をピーピーと吹き鳴らすと声を限りに、
「暴徒来襲!」と叫んだ。

 すると忽ち一大喊声(かんせい)が山岳に轟き渡った。そして狂いに狂い、猛りに猛った一大群衆は、邑内を疾風の如く真白になって、早くも分遣所の門前に怒涛の如く殺到した。

 すわこそ! と私は正門の第一線に、K上等兵とS上等兵と三人で躍進して、
「入るな、待てッ!」と大声で叫んで、これが鎮撫に努めたが、その先頭部隊は制止を聞かず、門札をはずしてこれを地上に抛(なげう)ち、万歳を連呼して我等の必死の防禦線を突破して、各所に格闘が演じられた。

 私もK上等兵も第一線で、七八人あての屈強なる暴徒に組付かれ、その上千名に余る群衆のために、十重二十重に取り囲まれて、今は全く絶体絶命となってしまったので、私は思わず腰の挙銃を握りしめた。 

 その時暴徒の一隊は、早くも事務室に乱入せんとして、喊声は正に耳を聾(ろう)するばかりであった。
 嗚呼! その刹那! 嗚呼! その刹那!

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 4

 T分遣所長は更に一段と声を落して、
「それからこれは極秘だが、成川の分隊長が四日の朝、挙銃で左足の膝下を狙撃されてとうとう戦死したが、その一味が本部に入込んだらしい形跡があるから、中々油断ができないよ。」と私の顔を見つめた。

「あの分隊長がやられたのですか?」と私は目を見張った。思えば大正七年の一月、私が新任理事として初めて陽徳に赴任するとき、図らずも新任隊長として同じ自動車に乗り合わせたが、私は今その奇縁を思い浮かべて、惻々として哀悼の情に堪えなかった。私は僅かに、
「ほんとうに残念なことをしましたね。」と言ったが、それっきりやや暫らく二人の間に沈黙が続いた。が、T分遣所長は漸く口を開いて、
「然しこれは我々の士気に関することだから、全く極秘だよ。」と言って更に「あるいは僕が分隊の指揮を執らねばならぬかもしれない。」と付け加えた。

 それからまた私はK上等兵とOさんと三人で偵察に出た。路面に堅く凍りついた薄汚い雪の上を踏みしめながら、私は独り頭の中で、こうしてそちこち偵察しているうちに、何処かでひょっこり天道教信者の崔さんに巡り会わないだろうか。もし巡り会ったら、先ず崔さんによく説明して、更に崔さんからその仲間に説明してもらって、事無く解散することができたら何よりも幸せだが、もし万一不幸にして崔さんに巡り会わないで、他の憲兵に引致されるようなことがあったら、ほんとうに崔さんが可哀そうだと思った。そして、ただもう組合員という肉親的な感情から、どうかして崔さんに巡り会いたい、会って話したいと願い、且つ祈りつつ探し歩いた。けれども不幸にしてただ徒(いたずら)に焦慮するばかりであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 3

 私は第一班としてK上等兵とOさんと三人で、邑内の南谷山道路の方面に警戒に出た。夜目にも白く凍った陽徳川に出て橋の袂に佇むと、三町ばかり隔たった路上に、午前三時という深夜にもかかわらず、三十人ばかり集団して密議を凝らしているのを発見した。K上等兵は正面から、私とOさんは左右の側面から接近して、K上等兵は一応身体検査をした。すると各自懐中には、○○○○○を深く蔵していたので、K上等兵は直ちに之を引致した。

 私はOさんとK上等兵を援護しつつ、更に警戒線を巡邏して分遣所に帰ってきた。今度は次の班と交替した。そして私は誰もいない事務室で椅子に凭(もた)れてゲートルを巻き直していると、そこへT分遣所長が電話口からつかつかと私の側に来て低い声で、
「理事さん、本当に有難う。お蔭で電話も先刻から、どうやら不完全ながらも通ずるようになったから安心してくれ給え。そして成川よりの電話によると、今度の騒擾(そうじょう)は天道教徒の独立運動だということが分かったよ。」と言って長靴に縺れた軍刀をガチリャと左手で握り締めた。

「天道教ですか?」と言って私は驚いた。そして天道教信者である組合員誰彼の顔を自分の頭の中に描いてみた。それから最後に、豹を獲った天道教信者の崔さんを思い、錐ででも胸を抉られるような思いがした。そしてどうかあの年取った崔さんがこの運動に加わっていてくれなければいいがと唯そればかりを心密かに念じた。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 2

 郡庁の前を通って組合の横に出たので、私は念のため組合の周囲を廻ってみた。そして小徑伝いに裏門から分遣所に行った。

 分遣所の構内の宿舎には、燈が細く点いて誰かの低い話し声が聞こえていた。事務室の中央には机があるばかりで、その他は全部片づけられてあった。

 T分遣所長は軍帽を被ったまま電話口で、「もしもし、もしもし」と呼び続けていたが、更に応答はないらしかった。私が入っていったのに気がつくと、電話を側にいる補助員に代わらせて、
「いや、理事さん、どうもよく来てくれました。有難う。」と感激に輝く目を見張って、私の手を堅く握った。それから続いて入ってきた進さんやOさんを見て、
「どうも皆さん、有難う。先刻班長から皆さんのご協議の結果を聞いて感謝しております。どうか何分よろしく。このとおり他の所員は皆偵察に出ているような状況です。」と言って三人に椅子をすすめてくれた。そのうち全部顔が揃ったが、何れも皆緊張しきっていた。婦人や子供は皆憲兵隊の官舎に収容して、男子は全部警備につくことになった。そこで地方人と憲兵とを合同して、一斑から三班まで組織して、代わる代わる邑内及びその付近一帯の偵察と警備についたのである。

 そしてT分遣所長は一同に対し、厳然たる態度で、
「茲に各位の応援を得、大いに意を強くすることができたのは、誠に感謝に堪えません。で、この際、我々は絶対に軽挙を慎まねばなりません。而して武器の使用は一定の掟があって絶対非常の場合に限られているのであります。私共は能ふべくんば之を用いずして鎮圧したいと思いますが、愈々絶対絶命となれば、私は全責任を負うて命令を下します。その命令あるまでは、如何なることがあっても、隠忍自重して決して武器を使用してはなりません。それでは皆さん、一致協力してベストを尽くして下さい。」

 T分遣所長は未だ嘗て見たことがないほど緊張していた。そして凛然として顔色自ら決するところがあるものの如く見受けられた。

 そこで憲兵と在留民とは、共同交代して邑の内外四方に警戒線を張ると共に、徒党をして大集団たらしめざるよう、夜陰に乗じて集合し来たるものは、順次に一応之を引致することにした。

朝鮮農村物語 我が足跡 偵察 1

 夜半のしじまを破るものは、唯我々の足音ばかりであった。私は進さんの家と棟並びである自分の家を星明りに顧みながら黙々として歩いた。青年会堂の前に来ると、突然闇の中から、
「髜修さん!」と呼びかけた者があった。
 私はギョッとしたが、直ぐそれが灰かぐらをたてたOさんの声であることがわかった。Oさんは茶色の外套を着て、大きな黄楊のステッキを持って私共に追いついて来た。
「進さん、大丈夫でしょうか?」と、Oさんは低い声で聞いた。
「そんなに心配することはないでしょう。然しこの群衆心理というやつは、意外な結果を生むことがありますからね。それに憲兵隊では、補助員を除くと所長と班長と上等兵が四名で、そして地方側が全部で十二名ですから、合計十八名で、その他は婦女子や子供ばかりですからね。」
「・・・・・・・・・・。」
進さんの話に対しては、Oさんは何とも言わなかった。そして何か自分で深く考え込んでいるらしかった。話が途切れるとまた元の静寂に返ってしまった。そして我々が凍った大地を踏みつけるその足音が鬱蒼たる保護林にもの淋しく谺(こだま)するばかりであった。進さんに手を引かれていた坊ちゃんは、思い出したように、
「お父ちゃん、何処へ行くの?」と進さんを見上げるようにして訊ねた。
「憲兵隊に行くのよ。」
「どうして憲兵隊に行くの?」
「みんなが行くことになったから・・・。」と言ったが、父としての進さんは、それ以上その際説明することはできなかったに違いない。坊ちゃんは更に、
「組合のおじさんも行くの?」と一段高い声で私に聞いた。
「ええ、おじさんも、Oさんのおじさんも皆行くのですよ。」と私は答えた。

2010年4月25日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 10

 私は無言のままで、その短刀を受取って、腰に手挟んだ(たばさ)んだ。そして、
「さァ、行きましょう。」と、進さんを促した。進さんは、
「重松さん、住みなれた家も、これが最後となるかもしれませんね。」と、懐かしき我が家を振り返りつつ歩き出した。

 真っ暗な私の家で、柱時計がチーンと一時を報じた。  

 早春三月の夜風は、犇々と肌に迫ってくる。仰げば晴れ渡った大空には無数の星が淋しく瞬いている。  

 時折憲兵の佩剣の音や靴音が聞こえるばかりで、夜更けた邑内は全く湖の底のように静寂であった。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 9

 私は後に残ったOさんと後片付けをした。その時Oさんはカンカンと熾(おこ)っている火鉢の火が危ないというので、鉄瓶の湯を上からザアザアとぶっかけた。濛々たる灰かぐらが天井に舞い上がり室内に広がった。Oさんは、
「火気があると火災の憂いがあると思ってやったら、エライ事になった。」と、独り言のように言って、その灰かぐらを逃げるようにして支度をするため自分の家にと帰って行った。

 私は直ちに洋服に着替えて、巻脚絆をクルクルと巻いて、護身用の挙銃を腰に吊って門に出た。そして月明かりに門標をはずして内庭に投げ込んだ。するとそれが凍った庭石に当って、カラカラ淋しい空ろな音を立てた。

 隣の進さんを誘いに行くと、進さんは七歳になる長男の手を引いて、奥さんは四つになる長女を背負って出掛けようとするところであった。
「進さん、準備は出来ましたか?」
「準備といったって何もありませんよ。まったく着の身着のままですよ。」と、洋服を着てゲートルを巻いていた進さんは自分の家族を顧た。そして、
「重松さん、貴方とはこうして隣同士に住まって、長い間兄弟のように暮しましたが、愈々お別れする日が来ました。我々は日本人である。死すべき時には潔く死にましょう。今家内には十分言い含めておきました。これは私の家の先祖伝来の兼氏の一振でありますが、まさかの時の用意に貴方に差し上げます。これが要るような事があっては大変ですが、どうか男らしく働いて下さい。」と言って、進さんは黒い袋に包んだ一振の日本刀を私に差し出した。そして尚も、
「我々に万一の事があったら、この無心の子供が全く可哀そうですね。」と、進さんは暗然として、坊ちゃんの手を堅く握りしめた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 8

 すわこそ! と一同は緊張したが、対策は容易に纏(まとま)らない。そこで、どうしても民衆保護機関たる憲兵隊と連絡を取る必要があるというので、直ちに分遣所長の立会を求めた。然し所長は今指揮を執っているから来られないといって、班長が代理として駆けつけた。そして班長は如何にも沈痛な口調で、
「彼らの行動は、成川の模様を見ると、先ず憲兵隊を襲うて、次に諸官公署を襲うらしい計画であります。然し唯でさえ憲兵が欠員であるところに、先日また国葬警戒のために三名は京城に行って不在であります。斯の如く少数の兵員で、一方に分遣所の防備を為し、また一方に諸官公署並びに在留民の生命財産を完全に保護することは、中々困難であります。それにこの際憲兵を各方面に割くことは、どうしても事情が許しません。軍人である我等は勿論、家族の者も既に死を期して善処しようとしているのでありますから、皆さんも充分御了察を願います。」

 班長の言葉は誠に悲壮であった。Y庶務主任は、
「成川の分隊から憲兵の増派か、若しくは平壌から援兵は願われないのでしょうか?」
「ハイ、それで所長殿は昼間から電話を掛けていますが、今に要領を得ないのであります。」
 班長は僅かに眉を動かした。Y庶務主任は更に一同に向って、
「皆さん、皆さんもご承知のとおり、当地は全く孤立無援の地に等しい僻辺であります。それにまた四囲の状況は既にお聞きのとおりであります。憲兵隊も兵員が少ないのでありますから、この際我等は万全を期する為に、官民一致協力して憲兵隊を援助し、もし殪(たお)るれば共に殪れたいと思います。」  
 悲痛な声は、極度に緊張して底力があった。

 その時またドカドカと慌ただしい靴音が門前で止った。
「班長殿、報告! 群衆の先発隊は、既に当邑より一里余りの地点に迫りつつあり。終りーッ。」
 K上等兵は恐ろしいほど緊張していた。班長は、
「皆さん、あの報告のとおり、危急がだんだん迫ってきましたから、私はこれで失礼します。何分よろしく。」
 と雄々しくも言い捨てて、Y上等兵の後を追うてまた闇に消えた。

「それでは皆さん、直ちに憲兵隊へ。」という声が異口同音に交わされて、各々は準備のために帰宅した。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 7

 郡守の側に座っていたY庶務主任は、両面封紙を折鞄の中から何枚か取り出して、
「皆さんご苦労でした。それでは今回の突発事件に対して善後策を講究したいと思いますから、どうか忌憚なき意見をお述べ下さるようにお願い致します。」と静かに述べ終わったが、室内には重苦しい空気が充満して咳一つする者さえもない。ただ柱時計の時を刻む音が、コチコチと聞こえるばかりであった。

 折から慌ただしい靴音が聞こえたが、やがて私の家の前でハタと止まった。入口に座を占めていたOさんは、私に代わって戸を開けた。すると、
「分遣所長殿より連絡の為報告!」声は低かったが、力が籠っていた。よく見ると厳めしく武装をしたK上等兵であった。そして、
「ただ今当邑を去る五里の地点五柳洞より、暴徒数百部隊を為し邑内襲撃の目的をもって、間道を経て陽徳に向いつつあり。終りーッ!」
K上等兵の姿は、靴音を残して闇の中に掻き消えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 6

 私は家に帰ると、直ぐ襖を外して、日本間と温突とをブッ通しにして、ありったけの火鉢に火を入れて準備をした。

 灯し頃になると、郡庁の技手のOさんが真っ先に来た。そして火鉢の前に落ちるように座って、
「重松さんエライことになったですねえ。私は何にも知らずに出張していて、つい先刻帰ってきて、Y主任から話を聞いてやって来たのですよ。」と、火鉢に手をかざしたが、いつになく印伝の煙草入れを抜こうとしなかった。そこへまた、直ぐ隣の進さんが来たが、何れも心配そうな面持ちであった。Oさんは、
「進さん、一体どうなるのでしょうね。」と眉を顰(ひそ)めて聞いた。進さんだって勿論分ろう筈もないのであるが、こうした場合には相手から何かを求めようとして聞くのが人情である。

「どうなるかって、成川があれだけの酷い騒ぎですからね。それに此処は警備上極めて重要な位置であったから、一昨年の十月まで、一箇中隊の守備隊が駐屯していたのでしょう。それをみても、Oさん大抵想像がつくでしょう。」
「心配ですね。こんな時に守備隊があると安心ですがね。」
「そうですよ。今仮に万一の場合、応援を求めるとしても平壌へは三十八里、元山へは十二里ですからね。」
「元山の方はいくら近くても道外ですから、ソレッと言っても中々容易ではないでしょう。それに平壌から来るにしても、十六里の成川までは自動車が来ても、それから歩けば二十二里もあるから、いくら強行軍をしいても二日は悠にかかりますね。」
「そりゃ、愈々となれば、自動車さえあれば、成川からでも自動車で来られないことはないですけれど、そんな事になったら大変ですよ。」
「大変には違いないがそうなるかもしれませんよ。」
Oさんと進さんの話は段々真剣になってきた。その内に次から次へと詰め掛けて、一人の漏れもなく全員集まった。もちろん全員といったところで内地人としては、郡庁側は両主任に次席一人と技術員三名、それに登記所主任、普通学校長、雑貨屋一、宿屋一、私とも十一名で、それに郡守が加わっていた。郵便局長は通信事務のために来られなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 5

 その頃陽徳に一番早く来る新聞は元山新聞で、二日目には届いた。その他の新聞は、大抵五日または一週間以上かかっていた。それで邑内の人々は、元山新聞を一番早くニュースとして読んでいたのである。
「平壌方面の状況は分かりませんか?」
「全く不明ですよ。隣郡の成川の様子でさえも、それだけしか分からないのですから、それに大事の電話が通じないのですものね。」
「ほんとうに大変な事になりましたね。」

 私達は桑園を通り抜けて本通りに出た。そして二人は肩を並べて大股にずんずんと歩きながら、不安の想像に銘々の思いを走らせた。そして私と進さんが郡庁に行った時は、もう諸官公署の代表者は皆集まっていた。

 庶務主任は私に顛末を一応話してくれということだったので、私は先刻分遣所長と会見した要領を残らず、極めて冷静な態度で話した。すると何れもこの意外突発事件を非常に驚いた。そしてこれからどのようになりゆくことかと、ただ顔を見合わすばかりであった。誰の顔にも、一刻前と変わって、一様に憂色が漂っていた。いろいろと協議の結果、とにかく晩の八時から、中央部に在る私の家に集まって、更に協議をすることにして一応解散した。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 4

 私は事務所に帰って、一通り事務の整理をして、直ちに郡庁に出かけた。郡守宅で郡守と両主任とに会見して、唯今の分遣所長の話を残らず話した。そして善後策を協議するために、諸官公署の代表者に回章を廻して一応郡庁に集まることにした。 
 その間に私は、平素親しくしていた普通学校の進さんに知らせに行った。進さんは教員室で、何か他の先生と頻りに研究していた。私は緊急打ち合わせを要する事があるから、直ちに郡庁に集まるようにと言って進さんを促して出た。

 二人は学校の桑園の間道を急ぎ足に歩いた。半町ばかり来ると進さんは漸く、
「何事かね。」と振り返った。
私は、所長から聞いた通りのことを話した。
「そりゃ一体、何の目的の暴徒だろうね。」進さんも私と同じように疑問を発した。
「私も全く分からないが、昨日の元山新聞を見ると、所々に白地や抹削された箇所があったが、その中に何の意味か分からないのですが、天道教とか独立とか、万歳とかの文字が判読されたが、天道教が何か運動でも起こしたのではないでしょうか?」と私は答えた。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 3

 二人が組合の植え込みの小松の側まで来ると、T所長は此処ならよかろうといったように立ち止まった。そして、
「理事さん! 大変な事が起こったよ。今朝十時にね、隣郡の成川に俄然暴徒が蜂起して、内鮮人死傷○○○名の見込みだそうだよ。そして・・・」と言いかけている分遣所長の言葉を遮って、
「それはまた、何のための暴徒ですか?」と言葉鋭く聞いた。

 春風駘蕩たる心持を抱いて仕事をしている理事としての私には、全く寝耳に水で、何の目的のための暴徒か全然想像もつかなかった。所長は小松の枝を引っ掴んで、
「それはまだ僕にも分からないのだ。ただ成川分隊からの電話によると、内鮮人死傷○○○名の見込みだ。そして主謀者が途中同志を叫合しつつ、陽徳襲撃に向ったから厳重に注意せよ。とまでは電話が聞き取れたが、それからは時々銃声が聞こゆるばかりで、どうしても電話が通じないのだよ。」
「それは大変な事になりましたねえ。」
 私はその暴動がやがてこの孤立無援の僻邑にも、波及して来るのではなかろうかと不安で堪らなかった。所長は、 
「それでだ。僕は万一に備うるために、各出張所員の非常召集の手配や、兵器の整理や、また分隊との連絡を保たねばならないから、君は直ちに邑内の諸官公署と連絡を取ってくれ給え。何しろ分遣所は憲兵が欠員のところに、また国葬警備のために召集せられたりして、人手が足りなくて困っているのだ。とにかくこんな非常時には、各官署が連絡をとって、できるだけ未然に塞がなくてはならないから、何分よろしく頼むよ。」と言うと、駆け足で憲兵隊に帰って行った。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 2

 私は夕飯後燈下でその日の新聞を広げて見た。すると元山新聞には、悲しい国葬の記事が数欄にわたって掲載されていたが、所々白地のままや或いは抹消された所があった。然し私には何の為に抹消されたのか全く不明であり、想像さえもつかなかった。

 翌四日は、丁度三寒に巡り合わしたのか、朝から陰鬱な暗雲が低迷して、今にも雪が降り出しそうであった。 
事務室で事業計画の編纂に余念がなかった私は、ペンを握ったままガラス戸越しに、見るともなしに組合の後ろにある憲兵隊の方を見ていると、帽子も被らず剣も吊らずに、黒い長靴を履いたT分遣所長が慌ただしく憲兵隊の裏門から走り出た。続いて厳めしく武装したS上等兵とK上等兵が、今度は分遣所長とは全く別の方向に宙を飛ぶように走った。私は「おや! 何か事件が起ったな・」と直感した。すると忽ち分遣所長は、組合のドアを開けて慌ただしく駆け込んだ。そして窓口に二三組合員がいるのに気がついて、直ちに冷静な態度に返った。

「理事さん、一寸話したい事があるから外へ出てくれ給え。」と落ち付いた態度で言ったが、私は先刻からの様子でただ事ではないと思った。

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 1

早春の陽は弱く静かに暖かい。太陽が東の保護林の上に高く差し昇ると、今まで灰色に凍っていた路面や裏畑が、じりじりと黒く湿ってくる。全くこの頃の四温日の大地は微笑んでいるようだ。
 隣の破れかかった黍殻の籠に止まっていた鶏が、美しい羽を羽ばたいて朗らか唄った。組合の石畳や郡庁の門前の日向には何処の飼い豚か知らないが、ぞろぞろと沢山の子豚を引き連れてきて、さも気持ちよさそうに枯れ芝の陽に仰向けにひっくり返って腹を干している。まことにこの僻邑にふさわしい平和な情景であった。

 S組合の設立準備委員に任命された洪君が赴任してからは、だんだんと年度末が近づいたので、忙しい月日が続いた。

 三月三日は故李太王殿下の国を挙げての悲しい国葬日であった。そしてこの高原地帯の僻辺ですら、山河は朝より悲しい風が簫々(ショウショウ)と吹き渡った。邑内の家々には一斉に半旗が掲げられて邑人は今日の悲しき国葬を敬弔し、邑内は深い悲しみの幕に包まれた。

2010年4月23日金曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 4

 その頃また奥さんは妊娠して、丁度臨月であった。 
こうして陽徳で成長し、陽徳で家庭をつくった洪君は、故郷は平壌であったが、今は全く陽徳を自分の故郷と思っているようだった。その住み慣れた陽徳を今また、家族を残して単身出発するということは、洪君としては感慨に堪えなかったのも、決して無理はない。

「理事さん、妻は臨月ですから、子供と一緒に残して行きますので、何分宜しく頼みます。この春暖かくなればまた迎えにまいります。」と言って洪君は赤くなった目をこすった。
「随分大事にして働きなさい。家族のことは及ばずながらお世話するから心配しないでね。」と言って私は朝倉理事に宛てた紹介状を渡した。それを洪君は受取ると、マントを着たまま、馬夫が引いてきた馬に乗った。雪は紛紛(ふんぷん)として一層激しく降りだした。

奥さんに抱かれていた子供は、泣き出しそうな顔をして、「アボジイ!」と叫んだ。
洪君は黙って馬上から頷いた。その途端馬はシャンシャンと歩き出した。
奥さんは子供を抱いたまま、降りしきる雪の中に佇んで、洪君を目送しながら何か祈っていた。

 邑はずれの陽徳橋を渡ると、洪君は最後に邑を振り返って、妻子のために雪の馬上に祈りを捧げた。
もう洪君の姿は、降りしきる雪のために見えなくなった。
シャンシャンと鳴っていた馬の鈴も、今はもう全く聞こえなくなってしまった。
私は淡い離愁を抱いて、何時までも雪の中に佇んでいた。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 3

 洪君は学校を卒業して、ほんの十六歳の子供の時に、陽徳組合の第一回目の小山理事に書記として使われて、単身赴任して、それから二十二歳の春まで、この山紫水明の陽徳の自然の懐に抱かれて、極めて平和に、且つ幸せに育まれたのである。

 そして三年ほど前にその出入りしている教会の牧師の娘と結婚した。それ以来組合の書記生活はもちろん、家庭に於いても恵まれた感謝生活を送っていた。

 私が陽徳に赴任する少し前に、男の子が生まれた。洪君夫妻の喜びは一際(ひときわ)だった。そしてその子が生まれたのは、全くこの山の中の平和な陽徳のお陰だといって、その子供を洪陽徳と命名して、朝夕二人は寵愛していたのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 2

 洪君の奥さんは、洪君より一つ下の二十一歳で、誠にしとやかな婦人であった。京城の或る女学校を卒業すると、洪君と結婚したが、やはり熱心な耶蘇教信者であった。そして普通、朝鮮婦人のように、他の男を見ると、逃げたり隠れたり、また態と横を向いたりするような態度は少しもしなかった。そして途中で会っても、丁寧に頭を下げた。洪君の奥さんはどこまでも淑やかな夫人であった。

「今くらいの雪なら大丈夫でしょう。とにかく昨日も道庁から電話がかかってきたように、向こうの設立を大変急いでいますからねえ。」と言って、私は洪君の出発を促した。
「とにかく、行ける所まで行きましょう。」と言って、洪君は立ち上がった。奥さんが黙って洪君の黒いマントを差出すと、洪君は黙ってそれを受取った。
温突の障子に雪が吹きつけられる音が聞こえた。

朝鮮農村物語 我が足跡 馬の鈴 1

 その年の晩秋から、何回かT部長と照復したが、とうとう頭のいい耶蘇教信者の洪君は、S組合の設立準備委員を命ぜられることとなった。勿論設立の暁はS組合の理事に任命せられ、本道に最初の鮮人理事としての栄誉を担うことになっていたのである。

 S組合の設立は、非常に急を要していたので、洪君は大正八年の新春を迎えると、その新年宴会が済んだ翌日の六日に愈々出発することになった。

 前夜から降りだした雪は朝になってもなお止まなかった。私が洪君の家に行った時は、もう馬の準備ができて前のポプラの樹に繋がれてあった。雪はシンシン降りしきって、その栗毛の朝鮮馬の顔にも背にも沢山積もっていた。馬は時々嘶いて雪を払うためにブルブルと胴震いしていた。
「お早う、洪君準備が出来たかね。」と私は外から声をかけて温突の戸を開けてみると、洪君夫妻は子供を真中に座らせて、東の方を向き何か頻りに祈っていた。二人とも目に涙を一杯溜めていた。私が開けた温突の戸の隙からは、雪がしゅうしゅう吹き込んだ。私は黙って戸を閉めた。
「ハイ、すっかり準備は出来ました。」と言って洪君は私の方に向き直った。
「理事さん、こんなに雪が降っても大丈夫でしょうか。」と洪君の奥さんは、子供を自分の膝の上に抱いて私に尋ねた。そして涙に潤んだ目をそうっと拭いた。

2010年4月22日木曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 5

 弾丸に当らなかった二羽の鵲は飛んで逃げたはずなのに、撃たれた友鵲を見て一度飛び立ったがまた後戻りしてその側に飛んで降りた。そして苦しんでいる友鵲を悼むようにギヤァギヤァ鳴き騒いだ。

 私は何の気なしに撃ちとめたこの鵲の意外な有様を見て、何だか薄気味悪かった。進さんもじっと見ていたが、
「重松さん、僕も鵲を一度撃った経験があるが、実際鵲くらい友情に厚い鳥はないですよ。あの有様を見ても人間以上かもしれませんね。恐らく貴方がそばに行って捕まえても逃げないでしょう。」
「気持ちが悪い鳥ですね。それにああして墓の上に落ちて騒ぐのは。」と言いながら、私は哀韻をもらしている鵲から目を離さなかった。

 撃たれた鵲はだんだん羽ばたきをしなくなって、愈々事切れてしまったらしかったが、友鵲はなお悲しそうに、弔い鳴きを止めなかった。進さんはまた、
「この二羽の鵲は、あの死んだ鵲の死骸がある限り、今夜もここを離れないでしょう。」
「あんな単純な鳥だが、ばかに友情が厚いですねえ。」
「ええ、そうです。この前私が撃ったときも全くこのとおりでしたよ。」
「何だか気味が悪いですねえ、うっちゃらかして帰りましょう。」と言ったが、何だかお互いの人生を暗示でもされるような気がしてならなかった。私が銃を肩にかけて歩き出したら、進さんもまた歩き出した。

 二人は思い思いに、撃たれた鵲の死について考えながら丘を下りたが、なおも墓山では、鵲が友鵲の死を悼み悲しむ声が幽寂な秋の黄昏の空気を震わせていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 4

 崔さんを訪ねていくと、今日は日曜日で天道教の教会へ行って不在であると、崔さんよりも年上の細君が答えた。仕方がないからまた山越えをしてあちこち歩いたが、更に一羽の雉も見つからなかった。二人はもうヘトヘトに疲れてしまった。進さんは、
「今日は貴方と一緒に来たから、一羽も見当たらないのだ。」と言って私に責任を転嫁した。

「崔さんは、今年は沢山雉がいると言ったのにどうしたのでしょう。一羽もいないですねえ。」と言って私は岩に腰を下ろし、ゲートルにくっついている草の実を払った。すると直ぐ向かいの墓山の疎林に、鵲(かささぎ)が三羽止まっていたが、こちらを向いてギヤァギヤァとばかげた声を出して鳴き出した。それを見た瞬間「あの鵲でも撃ってやろう」という衝動が咄嗟に私の胸に浮かんだので、進さんの銃を借りてズドンと一発撃った。すると三羽の中の一羽が土饅頭の墓の上に舞い落ちた。そしてギヤァギヤァといやな声を出して、羽ばたきをしながら断末魔の苦しみに悶えていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 3

 それから二十日ばかり経ったある日曜日であった。私は朝早くから進さんと二人で、崔さんの部落に雉を撃ちにでかけた。進さんは邑内狩猟家の白眉で、出猟すれば必ず二三羽の雉を腰にぶら下げて帰った。偶には一日にノロの二頭も撃ちとめて、邑内の人々を驚かせたりしていたが、私がついて行くときは奇妙に何時も不猟であった。

 二人は小高い丘や大きな山を幾つも越えて、崔さんの部落に出たが、途中では何の獲物もなかった。部落の外れに一軒のささやかな温突家があった。それが天にも地にも唯一軒の崔さんの安息所であった。家の直ぐ裏には、急勾配の山がいまにも崩れかかりそうに迫っている。その山裾から中腹までは石ころばかりの火田で、所々にひょろひょろとした玉蜀黍が、ぽつんぽつんと植わっていた。まるで石の中から生えているようだ。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 2

 ポプラの葉が風もないのに一片散った秋晴れの暖かい午後であった。天道教信者の崔さんが、久方振りに組合に顔を見せた。崔さんは組合に来ると、必ず事務室に入って、私の机の側に来て、吹雪の中で話すような大きな声で、いろいろと頓着なしに話すのだった。
「理事さん、今日は私が裏山の火田に作った玉蜀黍(とうもろこし)が出来たから持って来ました。これは煮ても焼いても中々美味しいですよ。」と言って崔さんは、萩で作った小さな籠を差し出した。その中には三本の玉蜀黍が入れてあったが、何れも皮の先が破れて、赤い鬚がはみ出した下から黄色い小粒の玉蜀黍の実が現れていた。崔さんは、
「今日は別に用事はないが、邑内に来たから訪ねてきました。今年は雉(きじ)が沢山いるから、日曜日にでも撃ちに来なさい。」と言って三本の玉蜀黍を私の机の上に残して帰って行った。三四日前に私が崔さんの部落に出張した時、崔さんは玉蜀黍を焼いてご馳走してくれたが中々美味しかった。それで今日また持ってきてくれたのである。

 私はこの玉蜀黍は、崔さんが焼けつくような石ころばかりの火田で、朝から晩まで真っ黒になって働いた汗の結晶だと思うと、ただこのまま食べてしまうのは何だか済まないような勿体ないような気がしてならなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 鵲(かささぎ)の友情 1

 大自然は永遠の歩をズンズンと陽徳の山野に運んだ。掘れば血の出るような赤土の山崖には産毛のような緑草が燃え出でて、訪ずるる春風に、李花はひそやかなる喜びをうたい、半島の自然の息づかいはだんだんと鼓動が高まってきた。
 爛春の陽徳は保護林の霞に明けて、孔子廟の李花に暮れ、やがて輝かしい夏に入る。川の流れに釣り糸を垂るる姿も、いつしか消えてしまうと、今度は粛殺として事務所のポプラを渡る風が淋しくなる。

 しんみりと胸に食い入るような虫の声を叢(くさむら)に聞かなくとも、永劫から永劫へと果てしなき旅を流れていく秋風の音を聞かなくとも、世は何時しか秋に入ったことを外気の冷えによって感ぜしめられる。高原の彼方に沈み行く赤い血のような夕日が愈々詩人を泣かしむるようになった。こうして自然の歩みは、更に落莫たる冬に入るのである。
 そして大自然は穢れなき真如の姿を悠久の行路に辿らすのであるが、そのうちにも人間界は、毎日私の机の上に遅れながらも届いてくる新聞紙上に、醜い争闘の記録を書き述べている。ある人はそれを美しいと見、ある人はそれを面白いと見、更に悲しいとみる人もあろう。
 淡い水のような明け暮れが、それでも真面目に平静に、一枚一枚と柱暦がめくられていく。それが陽徳に住む私の人生であった。しかも遠く都の塵を避けて、狼林山脈の中に五百の老若男女が巣くうている邑内に於いても、日々の変遷は繰り返されるのであった。

2010年4月21日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 6

 私がこの自殺の通知状を受取ったのは、三月二十五日で最早手遅れだとは思ったが、一応その手紙を差出して憲兵隊に届け出た。憲兵隊では組合員対理事との関係、出発当時の状況等を詳しく聴取して、直ちに手配をしてくれた。
 二三日すると、元山毎日や京日や朝新の各新聞に、二三段抜きで「身は洋々たる大海へ、陽徳金融理事に宛てたる遺書、元郵便局事務員田井の自殺」という大なる一号活字の見出しをつけて、遺書なども掲げて詳細に一斉に報された。

 それ以来邑内では、田井さんの自殺話でもちきりであった。
 その話が出ると、印伝の煙草入れのOさんは、
「死ぬ死ぬと言うものに、死んだ者がないから、あるいは田井さんも生きているかも知れませんね。」とどこまでも田井さんの生存説を主張していた。
普通学校長の進さんは、
「でも、田井さんは囚水という雅号をつけていたからあるいは水死したかもしれませんよ。こんなことは何でもないようだが、実際妙な因果関係があるものですからねえ。然しそれにしても、船に一つも遺留品が無いというのは、どうも不思議ですねえ。」と推理的に判断して、Oさんのように確定的ではないが、やはり田井さんの生死については、疑問をだいていた。
 直接自殺状を受取った私は、田井さんは今は亡き人のように思われたが、またひょっくり何処かで巡り会うのではないかとも思われた。そしてみすぼらしいアンペラ屋根の牛車、赤い毛布をかむって乗っていた田井さんの姿が目の底に沁み込んで、容易に消えなかった。

 その後田井さんの生死は、全く不明であったが、何ヶ月経っても更に消息がないので、流石に生存説のOさんも、疑問説の進さんも、遂に田井さんの自殺を肯定したらしかった。
 自殺状を受取った私は、静かにこの薄幸な老組合員田井さんの冥福を祈り、且つまた静かに、その生存を祈ったのであった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 5

 船の方が楽だから、元山からは船に乗ると言っていた田井さんが出発してから六日目であった。洪君は配達された一束の郵便物の中から、私に宛てた田井さんの手紙を見つけ出して、
「ああ、これは元山から出していますね。理事さん、田井さんは無事に着いたようですね。」
と言って横封筒に万年筆で走り書きにした田井さんの手紙を差出した。私は封を切って一息に読み下した。


  拝啓 前略御地在任中は一方ならぬ御世話に相成誠に
   有難奉鳴謝候、陳者小生出発に際しては、御丁重なる
   御餞別にその上、送別句まで頂き、途中明るき気分に
   て旅行を続け申候処、病勢は次第に重る許りにて、誠
   に生き甲斐なき事に御座候、この上病躯を提げて帰国
   するも、歓び迎ふる肉親とても無之、殊に人生既に五
   十を越え居り、此の上病苦に悩みつつ生を貪る心は、
   毛頭これなく、哀れ果敢なき人生と諦めて、茲に自殺
   を決心致し候條、生前特に御親交を賜りし理事様にの
   み、御通知申上候間死後は萬々宜しく御依頼申上候
                               早々不一
    さらば、時は今月今夜 場所は 元山港外
      辞世  古里の花を見ずして眠るかな
          大正七年三月二十二日  田井囚水
      重松理事様


「おお! これはまごうことなき田井さんの筆跡だ。」 
 私は手が戦いて、愕然として色を失った。そして大声をあげて、
「洪君、たた・・・大変だ! これは田井さんの自殺状だよ。」と叫んだ。生まれてから初めて自殺状を受取った私は、もう胸がドキドキするのをどうすることもできなかった。
「ハハァ、田井さんは自殺しましたか。やはり田井さんとしては,辿るべき道を辿りましたね。」と洪君は耶蘇教信者らしいことを言いながら、田井さんの手紙をのぞき込んだ。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 4

 不治の病に罹って田井さんは、世にも淋しい孤独の身で、今また職を失ってしまった。
こうしてあらゆる苦境のどん底に突き落とされながらも尚、俳人囚水としての生活を求めていた。そこに却って田井さんの人格がくっきりと表れて、気高くも亦床しくも思われた。

 田井さんが住み慣れた陽徳をたつときに、私はほんの心ばかりの餞別に送別句として「君行けや古里はいま花盛り」と一句短冊に認めておくったら、田井さんは、「これはどうも有難う。今は全く松山も花盛りでしょう。この句は私にとっては希望に満ちたいい句で、大変気に入りました。」と低い声で幾度か朗吟して喜んでいた。
 
 出発の前日に田井さんは、前任理事の松木さんが転任する時初めて考案して、邑内の人々から多大の賞賛を博した牛車館を作らせた。牛車館というのは、牛車の四隅に小さな柱を立て、アンペラで屋根と周囲を囲ったものであるが、その当時の奥地の転任には無くてはならぬ乗り物として人々から重宝がられていたのである。

 私が邑はずれまで見送りに行くと、田井さんはその牛車館に薄っぺらな蒲団を敷いて、その上に座って痩せた身体を赤い毛布にくるんで、湯たんぽを抱えてつくねんとしていた。少し遅れて組合の洪書記が見送りに来た。外套のポケットに手を入れたまま、
「田井さん、途中随分お大事にね。」と簡単ではあったが、洪君の挨拶には真情が溢れていた。
「・・・・・・・・・・」
 田井さんは目に涙を一杯ためて、黙って頷くばかりであった。 
 やがて牛車が雪の上をきしりだすと、田井さんは漸く、
「ありがとう・・・・・。」と言って何度も頭を下げた。そして牛車が山陰に隠れるころ、耐え切れなくなったのか、蒲団の上に泣き伏したらしかった。
 私も洪君も無言のままで佇んでいた。
「田井さんが行ってしまったから、これで内地人の組合員は愈々二人っきりになりましたね。」 と洪君は私を顧た。
「そうだね。しかし君、田井さんはあの身体で元山まで無事に着くだろうかねえ。」
「元山までは二十二里もあるのですが・・・多分大丈夫でしょう。」
 私は何だか田井さんの旅先が案ぜられてならなかった。
 吹き渡る谷風が、折々牛車のきしりゆく音を送ってきたが、それもだんだん聞こえなくなってしまった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 3

 それから二三日経つと、田井さんは私が貸した検温器と薬に一通の手紙を添えて返してきた。
 その手紙によると、自分の病気はマラリヤではない。胸の病に罹っているので、それで時々悪寒がして熱が出る。悪いこととは知りながら、私は皆さんにあからさまにそれとも言いかねていたが、幸い永らく台湾にいたことがあるから、マラリヤ熱だと人さんに言ってきたが、それが非常に罪悪のように思われて心苦しかった。貴方に対しても同じようにマラリヤと言って、心配をかけたことはまことに申し訳ないが、どうか哀れな独身の病弱者と見逃してもらいたい。ご親切に頂いたマラリヤの薬は、私の病気には不必要だから、このまま手を触れないでお返しする。検温器は十分消毒してくれるよう、また自分はどうしてもこの身体では働けないから、遺憾であったが本日辞職した。それで当分暖かい郷里の松山で保養するために、二三日中に出発するから、組合に預けてある貯金を全払いしてほしいとの意味であった。
 私はこの寄る辺ない老人の涙ぐましい手紙を見、且つ陽徳金融組合という友愛的な感情から、殊更、哀れをもよおした。Oさんは、
「それで初めて、田井さんが年賀状をよこす原因が解りました。まことに心がけのよい人ですねえ。」と、例の印伝の煙草入れをポンと抜いて、銀の煙管を取り出した。

 広い天涯の孤独の身を淋しがる田井さんは、不治の病に悶々の情を消しようもなかった。それを忘れるために、俳聖正岡子規をうんだ郷土松山で幼い時に培われた俳句を、老境に入ってからひねっては、唯一の慰藉としていた。囚水という変わった雅号をつけていたが、作品には中々みるべきものがあった。
 私は時々この可哀想な老組合員の病床を訪れることを忘れなかった。

 辞職したというその日の夕方訪ねて行くと、田井さんは薄暗い温突の床の中からやおら起き上がって、
「理事さん、貴方には手厚いお世話になりましたが、愈々明後日出発します。挨拶に行かれないような身体になってしまったことを悲しく思います。」とおろおろして目を瞬いたが、また気を取り直したか「先刻このような句を一句作ってみました。
「今日よりは世事を忘れて梅見かな」 この句は私が辞表を提出したときの感想です。句の善悪は別として私の気持ちが出ているつもりです。」と笑顔をつくったが、どこかに淋しさが漂っていた。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 2

 田井さんが組合に加入したのは、老後を養うための貯金、即ち養老貯金をするのが目的であった。だから無論貸付については何の交渉もなかった。
 私が郵便局の窓口に行った時、田井さんは、
「私は郵便局の事務員をして、他人には郵便貯金を勧めていますが、実際郵便貯金よりも組合の貯金の方が利息が高くて、計算の条件がいいから、貴方の組合へ預けます。」と言って、それ以来田井さんは毎月必ず給料日になると、封筒の中に幾らかの金を入れて、逓夫に持たせてよこした。

 田井さんは嘗て台湾にいる時、マラリヤに冒されて、それ以来時々発熱して困ると言っていたが、実際身体は痩せて、青白い顔に目も落ちこんで、その中に小さな瞳が輝いていた。そして右の眉の根にあるかなり大きい黒子は、妙に顔全体を淋しく曇らせていた。
 ある日田井さんから、発熱したから一寸検温器を貸してほしいといってきた。私は多分マラリヤの熱だろうと思って、義州をたつとき用意してきたマラリヤの薬を検温器に添えて持たせた。 それから間もなく、郡庁の技手のOさんが遊びに来た。
「田井さんは病気ですか。」
「そう、今発熱したから検温器を貸してほしいと来たが、多分マラリヤでしょう。」
「そうでしょうねえ、時にあの田井さんはねえ、全く外出が嫌いなんですよ。ここに来て、やがて三年になるが、毎年正月には邑内の人にまで年賀状を出して、決して自分で回礼には歩きませんよ。貴方も今年年賀状を貰ったでしょう。実際面白い人ですね。」と言った。
 Oさんは口では面白い人ですねえと言っていたが、内心奇妙だ、大分変わっていると思っているらしかった。そして月給取には聊(いささ)か不似合な煙草入れを腰から抜いて、銀の吸口のついた煙管で煙草をスパスパ吹かせた。Oさんはこの印伝の煙草入れは内地をたつとき、母親から形見に貰ったのだから離さないと言っていたが、実際Oさんは不思議にその煙草入れを離さなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 1

 その頃内地人の組合員は、僅かに三人しかいなかった。
 田井さんはその三人の内の一人で、以前は台湾の、ある田舎の郵便局長までした人だが、三四年前から渡鮮して、今では陽徳郵便局の一事務員として満足して働いている。年は五十三歳だが、若い時に随分苦労をしたとみえて、頭の毛は白髪の方が多かった。妻もなければ子供もない全くの孤独で、国元にも親戚らしい親戚もなく、唯一人の従兄弟が侘しく田井さんの帰りを待っていたが、それも先年の流感に斃(たお)れてしまった。
「凡そ世の中に孤独といっても、私くらい徹底した孤独はないでしょう。」などと言って、田井さんは非常に人生を淋しがっていた。

 そこの局長さんは、田井さんよりまだ二つ年上で、家庭の都合でやはり独身生活をしていた。
 夕方になると、この年老いた二人の独身者が、相対した官舎の縁側で、七輪にバタバタと火を起こして炊いていたが、その様はまことに味気ない浮世に思われた。

2010年4月20日火曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 5

 見物人の中にいた往年の虎狩の勇士、片手の金さんは、
「理事さん、これがこの間の恋の豹の片割れですよ。」と真面目な顔をして言った。
「これは牡ですか牝ですか?」洪君が聞くと、金さんは喰い取られた右の手をブラブラさせながら、左の手を差し伸べて、痛々しい豹の後ろ足を無造作に挙げてみた。そして、
「こいつは牡ですよ。」と言ったが、耶蘇教信者の洪君は何とも答えなかった。

 それから二三日経つと、豹を捕った崔さんが組合に来た。そして予ねて借りていた三十円の購牛資金の元利を返済してしまった。崔さんはこの間捕った豹を売ったのだといって意外な収入をよろこんでいた。
「理事さん、豹のロースは美味しかったですか?。」と崔さんは古い証書を財布に入れながら聞いた。実をいうと私は、あの皮を剥がれた豹のむくろを思い出して、どうしても食べる気になれなかったので、昨日までそのまま味噌漬けにしていたが、郡の産業技手のOさんが、昨日出張先から帰って遊びに来たので、二人で勇を皷して、その味噌漬けの豹のロースをすき焼きにして食べてみたが、中々美味しかった。それを話したら崔さんは安心したらしかった。そして「また捕ったらロースをあげましょう。」と言って帰っていった。

「崔さんは、また恋の牝豹も獲るつもりでしょうか・・・。」と言って洪君は私を顧みた。
 私は何とも答えなかったが、洪君はこの上恋の牝豹までも生け捕ることは、非常な罪悪のように考えているらしかった。弱い早春の日差しが窓越しにラシャ張りの机に流れた。
 またしても教会の鐘がカンカン鳴りだした。
 洪君はペンを握ったまま静かに黙祷した。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 4

 それから二三日たった大雪の朝の事であった。天道教信者の崔さんが、「大豹が捕れたから見物に来なさい。」と知らせてきた。私は崔さんの後ろからついて行ってみた。
 崔さんの友人の家に入ると、そこの内庭にはアンペラが敷かれてある。その上には七尺に余る大豹が、頭の先から尻尾の先まで丸剥ぎにされて、真っ赤な無気味な死体を横たえていた。
 温突の柱には丸剥ぎされた斑点の鮮やかな、生々しい豹皮が吊るされてあった。五六人の朝鮮人が恰も変死人でも見るように、アンペラの上に横たわっている豹のむくろを取り巻いていた。

 崔さんは豹の死骸を指しながら語りだした。その話によると、昨日の朝の大雪に、崔さんは予ねて仕掛けておいた狐罠を見回りに行った。すると木の根にしっかと縛っておいた鎖が切れて、そのあたり一面に猛獣の足跡が残っていた。崔さんは一時は非常に恐怖したが、部落の人々と棍棒を携えて、付近を探していると、直ぐ側の崖下から、山岳を震わすような、ウォーという物凄い唸り声が聞こえたので、人々は縮みあがった。勇を皷して遠巻きにして近寄ってみると、そこには一頭の大豹が足に鎖をつけたまま崖腹に倒れぶら下がって牙を鳴らしていた。

 その豹は狐罠にかかると、死力を尽くして鎖を引き切って、足を罠に挟まれたまま、疎林の中を一足飛びに逃げて行くうち、罠の鎖が木に巻きついて、自ら崖に落ちてぶら下がったのである。
 それでどうしても近づけないので、最初は大きな石を投げつけて、豹が弱ったのをみすませて、崔さんが棍棒を振って撲殺したのである。それを今日邑内に売りに持ってきたのである・・・と、皮を剥がれて目ばかりギョロギョロしている豹のむくろを顧みた。
「理事さん、豹のロースをあげましょう。これは米のとぎ汁に漬けておいて食べると、素晴しく美味しいですよ。」と言って、崔さんは猛獣狩りの名人ででもあるかのように、腰にぶら下げている金具の柄のついた小刀を抜いて、胸の肉をスルスルと剥ぎ取って新聞紙に包んでくれた。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 3

 早春のある朝のことであった。私が出勤すると洪君は私の机の前に来て、
「理事さん、今夜から宿直には小使も泊まるようにして下さい。」と頗る不安な顔をしている。
「どうしてかね・・・。」と私は出勤簿に判を押しながら尋ねた。
洪君は手真似をしながら、昨夜宿直をしていると、夜明け方に裏山で豹がウォーと嘯(うそぶ)いたとおもうと、今度はまた城北里の山でもウォーと豹が唸って、何でも互いに二三回、代わる代わる唸って逃げたらしかったが、それから一寸も眠れなかった。だから今夜から、小使も泊まらせてくれというのであった。
 私も恐ろしい豹の唸り声は聞いたが、まさか人家にまでは出ては来ないだろうと多寡をくっていたが、実際気持ちはよくなかった。

 それから噂が、忽ち邑内に広がって日没後は外出する者さえもなくなった。貯金を持ってきた郡庁の小使は、守備隊が引き揚げて鉄砲の音がしなくなったから、猛獣が出没するようになったのだと窓口で話していた。

 若い時に猛獣狩りをして虎と格闘し、右手を肘の下から喰い取られたという組合員の金さんは、「今頃は豹の交尾期で、裏山で牡が牝豹恋しと嘯いたから、城北里にいた牝が牡豹恋しと吼えたのです。つまり豹の恋ですよ。」と頗る合理的な説明をして聞かせたりした。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 2

 元来私は酒は一滴も飲めないのだが、折角私のために三里の道を持ってきてくれた崔さんの厚意を否むことはできなかった。グッと一杯飲み干すと全く咽喉が焼けつくようであった。崔さんは又ポケットから酒の肴だといって麦粉で作った色駄菓子を七つほどつかみ出した。そして、
「食べなさい。」と言って満足らしい顔をした。
 崔さんはその後よく利息を払いに組合に来た。その度に乏しい中から、幾らかづつの貯金をしていった。

 洪君は高等普通学校の卒業生で、年は若いが中々落ち付いた頭のいい男であった。そして熱心な耶蘇教信者で、滞貸整理などに出張すると、ある時は無暗に組合員に同情して、返済能力のある者に対してまでも回収せずにすごすご帰ってきたりしたこともあった。
 また日曜日には必ず教会に通った。教会の鐘がカンカンカンカンと鳴りだすと、何だか明るい気分になって、引き付けられるように教会に行きたくなるなどと話したりした。
 そして日曜日が市日に当たることが、洪君には一等苦痛らしかった。こんな時には出勤前に教会に行って、それから時間までに組合に出勤していた。組合員も誰も居ない時にこのカンカンが鳴りだすと、洪君はペンを握ったまま事務室でよく黙祷していた。

組合の裏山は保護林で、朝鮮松や落葉松が鬱蒼として繁茂している。その他四方は峨峨たる山岳が重畳(ちょうじょう)として、いずれを見てもT部長の言った京都の東山のようななだらかな山は見当たらなかった。
春になると丈なす白躑躅(つつじ)や、その他いろいろの珍しい高山植物が沢山咲き乱れている。
八月の盛夏というのに裏山では鶯と時鳥(ほととぎす)が一緒に鳴いて、全く高原地帯の別天地を思わせた。勿論蚊などは見たくてもいはしない。

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 1

 ストーブの胴腹に木の根っこを小使が押し込むと、それがドンドン燃える。平壌から石炭を買っては、肝心の石炭代より運賃の方がよほど高くなるから、この組合では榾(こち)を焚いているのである。

 その頃の組合の貸付限度は僅かに五十円で、私が引継ぎを受けたときは総貸出高は九千円、総預り金高は六百円位であった。職員は書記が一人に小使が一人、損をするのが当然で、利益があるのは寧ろ不思議なくらいに思っていた。
「俺の組合は今年は損失が僅かに二百円で済んだ。」などと損失の少ないのを以って誇りとしていた。
 今の組合の状況に比べると実に隔世の感がある。

 私が赴任して第一番に会った組合員は崔さんである。崔さんは年は五十足らずで身体は大きかった。四五年前から崔さんは、天道教を信ずるようになって、子供のときから四十余年も伸ばしていた頭髪を惜し気もなく切ってしまい、白髪交じりの頭髪を五分刈りにしている。
「この山の中で頭髪を刈っている人は、皆天道教信者ですよ。」と若い耶蘇教信者の洪君は説明した。

 崔さんは私の前に来て、丁寧に頭を下げた。そして腰に吊るしていた神代に用いたような、黒光りのする徳利を私の机の上に差出した。何事が始まるのかと見ていると、今度はチョッキのポケットから高麗焼のような色の杯を取り出して私につき出した。
「理事さんが代わったというから、挨拶に来ました。この山の中にご苦労です。まァ一杯飲んで下さい。」といって神代の徳利の口にしていた新聞紙の栓をはずした。するときつい朝鮮焼酎のにおいが、プーンと事務室中に広がった。
 一年中山の中で暮している崔さんは、私共の執務に対しては全く無関心らしかった。
「ありかがとう、だが私は酒はちっとも飲めないから。」と笑いながら断ると、
「でも今日は雪が降っていて寒いし、それに態々持ってきたのだから、まぁ一杯。」と言って、崔さんは働き手らしい算盤珠のような節をした指先で、自ら焼酎をその杯になみなみと注いで私に押しつけるように差出した。

2010年4月19日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 6

 邑の入口に長い橋がある。そこで気持ちのいい朝日が昇ってきた。そちらこちらの雪を頂いた藁屋根からは、炊煙が物静かに立ち上っている。馬夫は私を顧て、
「ヨンガムさん、今朝は早いョ。」と言って笑った。
「クロッチ。」と言って私は馬上から雪に埋もれた邑内を眺めた。
 橋の手前に、若いツルマキを着た青年が立っていて、手を挙げて私の馬を止めた。
「失礼ですが、貴方は新任理事さんではありませんか。」と呼びかけた。
「そうです。」と私は頷いた。
 青年は一枚の名刺を差し出して、
「私は書記の洪です。どうぞ宜しくお願いします。実は今朝警察電話で石湯池に聞いてみると、もう暗いうちにお発ちになったとのことで、急いで迎えに参りましたのです。まァとにかく馬から降りてください。」と私を見上げた。
私はこの先まだ数町あるのに、今馬から降りる事をばかばかしく思った。
「然しここに降りても仕方がないから、このまま行こう。」と私は言いながら髭の氷柱をこき捨てた。洪君は当惑したような顔をして、
「実は新任者は、すべて邑内の官民が出迎えをすることになっているのですが、今朝はあまりに早いのでまだその手配が・・・。」と歎願するように言った。
「君、出迎えのためならいいよ。」と私はシャンシャン馬を進めた。
洪君は私に引きずられるようについて来た。
私は馬の上で新任隊長のいかめしい成川入りのことを思い出して、あのように沢山の官民に出迎えられてはたまらない。この若い俺には挨拶は閉口だ、いや閉口するというよりも寧ろ出来ないと言った方が適切かもしれない。偶々馬夫に急き立てられて、こんなに早く来た事を今となっては幸いに思った。
 こうして新任理事の私は、二十二里の山嶽重畳たる山路を越えて、唯一人青年書記の洪君に迎えられて遂に赴任することができた。
 組合の事務室には、ドンドンストーブが燃えていた。
 馬夫はそれから直ぐ引き返していった。
 私は二十二里の間、一度も馬から落されなかったことに満足し、約束の賃金よりも一円奮発すると、馬夫は幾度も頭を下げて、後ろを振り向き振り向き帰っていった。
 取り残された私は、急に淋しさが潮の如くこみ上げてきた。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 5

 その翌日は宿泊する部落の関係上、強行軍を余儀なくされた。強行軍には前の主婦の言葉も守っていられない。まだ薄暗いうちに出発して、昨日の赤馬に乗ったり降りたりして、漸く十二里の道を走破して陽徳邑に二里の手前、石湯池温泉に辿り着いた。もうその時は日がとっぷり暮れていた。ここは内地人も憲兵以外は誰も住んでいない。
 面事務所の前のダラダラ坂を下ると、板屋があって、そこから濛々と湯気がたっている。一寸のぞいてみると、朽ちかかったかなり大きい浴槽に、湯が満々と湛えられている。板戸の隙からは鎌のような寒月が差し込んで、金色の小波がたっている。番人もいなければ浴客もいない。勿論灯もついていなかった。
 私は部長の、所謂箱根の温泉とはこれだなァと思って、月明かりを幸いに、疲れた身体を浴槽に横たえた。すると湯がザァーザァーとこぼれた。
「ヨンガムさん、灯を持って来たョ。」と馬夫が蝋燭を持ってきた。
 天井を仰ぐと、幾筋かの氷柱が垂れ下がっている。それが濛々と立つ湯気のためにとけて、時折身体の上にぽつりぽつりと雫が落ちてくる。その度に私はひやりとさせられた。
 寒月は窓から無心に流れ込んでいる。この太古のような温泉に浸っているうちに、何時の間にか私自身が太古の人のような気分になってしまった。

 ここから陽徳までは僅かに二里だが、馬夫が直ぐその足で別倉まで引き返したいから早く行こうと言うので私を起こした。薄暗いランプを点けて朝飯を食べたが、何を食べたか分からなかった。そしてほのぼのと明けかかった頃、シャンシャンと馬を追い立てて、温泉を出発した。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 4

 その朝、馬夫が朝鮮馬にしてはちと逞しすぎる、毛のぼやけた赤馬を曳いてきた。
「この馬はおとなしいかね。」と聞いたら、
「ネーネー。」と馬夫は答えた。
「落としたら、金は払わないよ。」と言ったが、馬夫は何とも答えなかった。
 出発の際、宿の主婦が、こんな厳冬の旅行は日の出後一時間して出発し、日の入り一時間前に宿に着かないと凍傷にかかると教えてくれた。
 丁度その日から生憎三寒に入って、寒さは中々猛烈であった。日の出後二時間も経っているのに、出発にさしかかると、寒さがひしひしと身に迫って、外套のボタンが外れても手が凍ってはめることができなかった。私は馬の上で凍傷にかかったのではないかと、時々手足の指を動かせてみた。
 この日の行程は七里であった。別倉では未だ日が高かったが、主婦の言葉を守って、鮮人宿に馬夫と二人でゴロ寝した。馬夫は大風のように、ゴーゴーと鼾をかいている。何処からか冬砧(トウチン)の音がカンカン響いてくる。カンテラがヂイーヂイーと音をたてた。私はそぞろに旅愁をおぼえて、どうしても眠れなかった。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 3

 途中憲兵出張所の前に来ると、そこには必ず五六人の憲兵が整列している。
 隊長が自動車から降りると、軍刀を抜いて、「かしらァ右」と号令をかける。隊長は挙手の礼をしながら、事務室に入る。そして凡そ十分位訓辞をしては又自動車に乗る。出張所や分遣所がある毎に、隊長は例外なくそれを繰り返した。
 その間私は幌のない自動車の片隅で寒さに震えていた。
 一本町の長い成川邑に入ると、そこには新任隊長を出迎える邑内の官民が沢山並んでいた。
 隊長は威勢よく自動車から降りた。私は罪人ででもあるかの如くこそこそとその人ごみの中を通り抜けた。そして旅館の前まで来ると又「かしらァ右」と、今度は破れ鐘のような号令が聞こえた。

 私は風呂から上がって、そそくさと夕飯を済ませて、温突(オンドル)の蒲団の中にもぐり込んだ。 
 陽徳はここからまだ二十二里もある。昨年の十月に守備隊が引き揚げてから俄かに寂れた。今は宿屋もなければ床屋もない。それに又近く雑貨屋も引き揚げるらしい。全く今の陽徳は灯が消えたようだと、床をとりに来た時の主婦の言葉を思い出して、何だか心細い消え入るような気がした。私はどうしても眠れなかった。
 何処かで、驢馬が咽喉でもえぐられているような声でしゃくり鳴いた。

 ここからはどうしても馬でたつより他に仕方がないが、私はその朝鮮馬に乗ることが大嫌いだ。それは大正四年の冬、全南の長城から潭陽に帰るときのことであった。朝鮮馬に乗って、折柄降りしきる雪に外套の頭巾を目深にかぶって馬に跨ったまでは無難であったが、潭陽に近づいた処で馬夫が手綱を放して用を足している間に、その白馬がフト何ものかに驚いて一足飛びに駆け出した。私は驚いて馬の鬣をしっかと握っていたが、馬が駆ける反動で外套の頭巾がだんだんと顔に被さってきて、遂に全く目が見えなくなり、ドウッとまっ逆さまに雪の深い溝に転がり落ちた。幸いに眼鏡を毀したのみで大した負傷もしなかったが、馬はいきりだってそのまま潭陽まで駆け帰ってしまった。馬夫は非常に気の毒がって、とうとう馬賃も請求に来なかった。それ以来、私は全く朝鮮馬に乗ることが嫌いになった。

2010年4月18日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 2

 翌日朝早く、道庁の第二部長(財務部長)に就任の挨拶に出かけた。道庁の入口では、昨夜来降り積もった雪を大勢の小使が担架で運んでいた。
 厳めしいカイゼル鬚の部長は葉巻を燻らせながら、グイと回転椅子を私の方に向けた。
 「君の辞令の日付は?」
 「ハイ、大正六年十二月三十一日付であります。」
 「三十一日付か。」とT部長はつぶやく。
 「君は陽徳はまだ知らないだろう。」
 「ハイ、存じません。」年若い私は何だかT部長から威圧されるような気がした。
 「陽徳はいい所だよ。箱根のような温泉が二箇所もあって、それに山は皆京都の東山のような山ばかりで、全く山紫水明の地だよ。本道の理事の中にも陽徳の希望者が沢山あったが、君は平北から来て、特に陽徳に行くようになったのは仕合せだ。赴任したら大いにやってくれ給え。」などと歯切れのいい数語を聞かされて、又宿に帰ってきた。

 そして炬燵の上に、先刻道庁で貰ってきた道勢一斑の地図を広げてみた。
 義州を発つとき山口老理事から「陽徳は平壌から三十八里、元山からは二十二里の地点で、狼林山脈中にある一僻邑(へきゆう)だ。定めし当分は淋しいことだろう。」と聞かされたが、今日の部長の話によれば、大して悲観するにも及ばないらしい未見の新任地をいろいろと想像してみた。

 その頃平元道路は立派に完成していたが、自動車は平壌から十六里離れた成川邑までしか往来していなかった。それも三日に一度という不便な交通状態であった。

 ともかく私は一月十九日(大正七年)の自動車で、高見君に見送られて平壌をたった。
 自動車の乗客は、私とトランクを沢山持った憲兵大尉と唯二人きりであった。そしてだんだん話している中に、その大尉は成川の憲兵隊に、新任分隊長として赴任するのだということが解った。私はこの二人の新任者が幌のない自動車に乗り合わせて、お互いに新任地に思いを馳せながら、雪の広野を東へ東へと驀地(まっしぐら)に進んで行くことは面白い因縁だと思った。

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 1

第一歩

 その夜の平壌は、大吹雪であった。全く咫尺(ししゃく)も分からない。新義州から電報を打っておいた同級生の高見君も一向迎えに来ていない。
 駅前に並んでいた十五、六台の人力車は、何れも下車した客を乗せて吹雪の中に吸い込まれるように消えてしまった。 
 私はどうしたらいいかと当惑していると、高見君が黒いマントの裾をつかんで吹きまくられながら、直ぐ目の前の吹雪の中に現れた。
「やァ!」と、私は落ち込んだ淵から救われたような気持ちで叫んだ。
「おい、今夜の吹雪はひどいなァ!」と高見君は曇った眼鏡をはずして拭きながら、
「実は早く来ようと思ったが、銀行が馬鹿に忙しくて今夜も夜勤を止めて、銀行から直接やって来たんだよ。」と息をはずませて言った。

 二人は学校を卒業すると土地調査局に勤めたが、大正六年の秋の半ばに、二人とも申し合わせたように退官してしまった。高見君は漢城銀行に入ったが、私は理事見習いとして、虫が鳴く国境の義州地方金融組合に赴任し、そこで見習いの三ヶ月を訳もなく過ごした。
 そしてその年の暮れに、突然、平南陽徳地方金融組合の理事を命ぜられた。私は平北を、恰も追放者のような心持ちを抱いて、朝夕見なれた統軍亭に名残の一瞥(いちべつ)を投げて出発したのであった。
 
 二人はやがて吹雪の中を泳ぐようにして町に出た。
 平壌は大正二年まだ学生時代に、暑中休暇を利用して無銭旅行で来たことがある。その頃は人車といって、レールの上に箱を置き客を乗せて、それを人間が後ろから押して歩いていたが、もうそんなものは見当たらなかった。
 その夜は高見君の下宿している朝日旅館に落ち付いて、吹雪をよそに二人は語り明かした。

朝鮮農村物語 我が足跡

昭和16年に創刊された「朝鮮農村物語」。

ブログでの紹介を始めてまだ3日ではありますが、
多くの皆様にご覧いただき私自身大変驚いております。

ありがとうございます。

本日より本編をアップしていきます。

少しずつではありますが、ぜひご覧ください。


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我が足跡

 「我が足跡」は私の金融組合生活を書いたものである。大正八年の早春、突如平和な朝鮮に、例の万歳事件が起った。その当時、若い理事であった私は、平南陽徳で右腿部に貫通銃創を蒙った。それからもう十年という月日が流れたが、私はとうとう跛者になってしまった。
 私は今も尚理事として第一線に立っている。辺境蕭條の夜に、あれを思いこれを考えるとき、甚だ感慨に堪えない。この「我が足跡」はその感想の断片と十年に亘る私の組合生活の一部を拙い筆に依って綴ったにすぎないのである。

  昭和三年九月二十六日
  於 平 南 江 東
著       者

2010年4月17日土曜日

朝鮮農村物語 序 5

 本書の編集から発行に至るまでの一切のこまごまとしたことは、木内高音氏と私とがあたったのであって、本書に何等かの不備な点があればそれは私たちの責任である。昨年の秋、紀元二千六百年の祝典に参列のため上京した著者と私たちとの間に簡単な打ち合わせはあったが、遠隔の地にある著者はすべてを私たちに一任したのであった。

「我が足跡」「それから十二年」の二篇を合して、これに「朝鮮農村物語」という書名を附したのは私である。著者を通して、「大地に生きる」式の書名を推してきた人もあったが、私は採らなかった。一見して何が書いてあるかを明示する質実な標題が本書のために好ましいと思った。「朝鮮農村物語」という書名は一般的にすぎ本書のもつ性格をあらわしていないということはあろうが、いろいろ考えた末に、結局この平凡な書名をよしとしたのである。
「我が足跡」には万歳事件の記述がある。これは著者の人生に影響した事件であり、この事件を境目として著者の新生活ははじまるのであるから、この記述は逸するわけにはいかない。
雑誌発表の時からは年も経っているので、岩田君の尽力で朝鮮総督府の内閣を経、差し支えなしということであったとの通知に接したが、私たちは尚その上に、いくらか削除したり、字句の修正をしたりした。著者負傷前後の事実の経過を明らかにする必要以上の記述はもとより最初からなかったのであるが。

 しかし二段組みにして五百頁近くに及ぶ本書の原稿全部に数回にわたって目を通し、章別を正し、誤字を正し、印刷に廻ってからは校正を全部自ら見て、こまかに心を配ったのはすべて木内氏の労なのである。氏はもっとも繁忙な仕事のなかにありながら本書の事は最初から最後まで一人で手がけられたのであった。私は時々氏から意見を求められて答えるにとどまった。氏の尽力がなかったならば本書が世に送られることはできなかった。著者と共に氏に対して深い感謝の意を表する。

 著者は昨年の暮れに黄海道から京畿道に移って今その地の組合にあって活動している。著者の今後の健康と活動とを祈ってやまない。
       
     昭和十六年九月
                           島  木  健  作      

朝鮮農村物語 序 4

「朝鮮農村物語」は農村更生物語である。そして著者は金融組合というような機関に職を奉じている人である。物語は明るくて感心な挿話に満ちているのである。従来この種類の本は少なくはないだろうが、知識階級の読者層からは多く顧られるに至っていないと思う。しかしこの本は、それらのものとはおのづからにして異なる特色を持っている。

 この本を読んで、この本が明るくて感心な挿話にのみ満ちているからといって、そのために反感を抱かしめられるという人はないだろう。「そんな感心なことばかりあるものか、こういう現実もある。こういう現実はどうしてくれるのだ。」というような態度をもった人はその感心な話に向うことはできないだろう。人は却って素朴な気持のいい感動に満たされるだろう。
 それはここに書かれていることには一つの作りごともないからである。すべては著者が身をもって踏み行ったことばかりである。そこにはまた何等の誇張も強がりもない。体験の事実が豊富だからそんな必要もないが、それよりも何よりも温雅な著者の人柄故にそんなことになりようはない。まことにこの本の生命は著者の人柄からおのづからにじみ出ている香気である。幼稚な文章も、所々にはさまれている、平凡陳腐な感慨もその香気のなかに一つに溶け込んでいる。

 近頃は三年か五年の農村指導者が非常な大きな身振りで言ったり書いたりし、さまざまな機関がまたそういう人を宣伝に使っているということが多く目につく。しかしこの本の著者はすでに二十数年間を朝鮮の農村の事に関係して暮してきているのである。そういう生活のなかから生まれ出たこの本は、本つくりの本ではなく、その人の生涯にただ一冊という種類の本なのである。

 著者の見る目や行動は、金融組合という機関を通している。そこには明白に一定の限界がある。しかしながらまたそういう限界をはるかに突き抜けているものもあるのである。美しい人間の心がそういう限界を突き抜けさせているのである。氏の行動が最も生彩を放ってくる時、私はそこに金融組合の理事を感ずるよりはじかに人間重松を感ずる。氏の人格が次第に村の人々の上に及んで、彼等の生活に幸福がもたらされる過程は感動的な美しさにみちている。

 内地の読者の間には朝鮮の事は余りにも知られなさすぎるようである。本書は朝鮮を知らしめ親しますためにも意義がある。外地における日本人の生活についても、多くの考えさせるものをもっている。農村における能率的な活動、増産ということについてはもとより非常に多く教えるものをもっているのである。

2010年4月16日金曜日

序 3

「それから十二年」には、その前につづく文章があるのであって、それは「わが足跡」と題するもので、やはり組合の機関紙に載ったものである。私は重松氏に乞うてその抜刷を得た。この篇は、まだ二十代の青年であった重松氏が平南の奥地陽徳に勤務中、所謂万歳事件に逢って負傷し、九死に一生を得、後に再起するまでのことを記したものである。組合では氏に対する同情から、現地の第一線から退かしめて、都会で、連合会の事務的な仕事を担当させ、氏もしばらくその任にいた。しかしどうしてもそういう生活にはあきたらぬものがあり、自ら希望して再び農村へ出たのである。そこが江東であった。その時から十二年間の生活というので「それから十二年」といったのである。

 私は雑誌連載の今までの分をまとめて送ってもらうことを、岩田君にも著者にもお願いして旅行から帰った。秋になって物語も完結したということで、今までの抜刷を一冊にまとめたものを送ってきた。
 私は通読してみた。それは私の予想どうり、農村更生物語にすぎなかった。「すぎなかった」というのは、それが文学的な著述でもなく、鋭い分析の書でも批判の書でも現実暴露の書でもないということであって、何等軽視する気持ちを含んでいるのではない。私は読みつつ、このような記録は広く読まれねばならぬものだということを強く感じた。

 私は、「我が足跡」と「それから十二年」とを携えて、中央公論社の出版部に木内高音氏を訪ね、一読を乞うた。木内氏は早速読んでくれた。そして非常に感動したと言って、進んで出版の事を引き受けられたのである。

序 2

 文章は非常に素直なものであった。素人らしい修飾も少なく、簡潔であった。記録文学ということを意識して書いているのでもないのだった。神経質でないあたたかさはことに好ましいものであって、筆者の人柄がしのばれるのだった。
 私の感想を聞いて岩田君も喜んだ。この文章が沢山の人々に愛し読まれていることを語って、編集者としての喜びを言った。

「そこに書かれているのは、平安南道の江東の組合時代のことですがね、重松さんは今は黄海道の支部長なんです。今日、これからお逢いできる筈ですが、」と、岩田君は言って、重松氏の人となりと仕事について話しはじめた。私たちは海州行の汽車に乗っているのであった。
 海州に着いた時、私たちは、足の不自由なからだを杖に托して駅頭に出迎えてくれている重松氏を見た。氏の温顔に接した時、私は舊知(きょうち)のような親しさを感じた。銃丸に貫かれた氏の足の負傷についてもその時はもう私は聞き知っていた。

 その夜、私は夜おそくまでも同氏の話を聞いた。朝鮮の農村事情について、江東金融組合時代の氏の生活について聞いた。話は非常に面白く有益であったが、それにもまして感じたのは氏の重厚な人柄であった。氏は特徴ある顎髯をたくわえていて、美髯といっていいほどであるが、卒然として見れば叱咤号令する人のごとき風貌である。しかし眼鏡の奥の眼は、童子のようなやさしさを湛えて輝いている。話すに従ってその心情のこまやかさ、やわらかさに全くちがった人柄を感じる。不自由な足をひきずり、跛行せねばならなかった若い頃の氏は、先ず何より周囲の住民からのあなどりをふせがなければならなかった。親しまれる前に威厳を示さねばならぬこともあったのである。後にはそのために一層親しまれることになった顎髯も当初はそんな必要からのものであった。二十数年前の朝鮮の奥地の蒙昧な生活を語る氏の話は非常にユーモラスでさえあった。私は外地における日本人について多くを知るものではないが、重松氏のような人物を見ることに有難さと頼もしさとを感じたのである。

序 1

 本書をこのような一冊にまでまとめて世に送ることを、著者にも発行者にもすすめたのは私なので、その立場から本書と著者とについて一言したい。

 昭和十五年の初夏の頃、私は朝鮮へ旅し、朝鮮金融組合連合会の岩田龍雄君の案内で、黄海道地方の農村へ行った。途中の車中、岩田君は朝鮮の農村事情についていろいろと説明したが、やがて鞄の中からその月の金融組合の機関紙を取り出し、その中のある文章を示して、それを是非読んでみるようにと言った。岩田君は当時、機関紙の編集の方を担当していたのである。
 氏が示した文章というのは、「それから十二年」というので、物語風に書かれたもので、もうだいぶ回数を重ねているらしい様子であった。作者重松髜修氏は金融組合の役員の一人だということであった。

 汽車はのろのろと走っていた。車窓から見る農村風景は私には珍しかった。私は見たり聞いたりすることに忙しかったが、それでもその合間に、「それから十二年」にざっと目を通すことができた。
「いかがですか?」と、岩田君はたずねた。私は「非常に面白い」と言って率直に自分の感想を語った。「それから十二年」は物語風に書いているが小説ではなかった。田舎に住んで仕事をしている金融組合の職員(重松氏)が、組合の仕事を中心に村の生活をありのままに記したものであった。私という主人公の生活が中心だが、狭い私生活に膠著せず、朝鮮農村のいろいろな姿が見えるように描かれており、二つの民族が交流し合っている難しい関係のなかで仕事をしている人々の心情も温かく読むものの心にしみるのであった。