田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月15日土曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 N検事 1

 三月六日の朝兵隊が到着してからは、地方人は主として憲兵隊内の仕事を助け、憲兵と兵士とは積極的に外部の偵察並に警備についた。

 私の負傷の容態は一進一退で、全く生死の境を彷徨っていた。六日の西鮮日報や京日や大朝や大毎には、早くも「陽徳金融組合理事重傷を負えり」と見出しを掲げて報道されたので、各地の友人知己からは、見舞いや照会の電報が頻頻と届いて、忽ち六十余通に達したが、私の容態は一喜一憂で、既に負傷以来四日を経過したが、ただ仰向けに寝たばかりで身動きさえもできなかった。

 粥の世話や大小便の始末は、主として進さんの奥さんが面倒を見てくれたが、私はこうした状態が何時まで続くことかと思うと、奥さんに対して本当にすまないと心を痛めた。

 それから間もなく邑内の付近一帯が静穏に帰したので、兵士に休養を与えるために、憲兵隊の宿舎を空けることになって、地方人は八日にそれぞれ自分の住宅に帰っていった。 
 私もその日の午後に、嘗て乗せられた担架に乗って、再び、灰かぐらを立てた我が家に帰ることができたが、誠に悲しい嬉しさであった。

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