田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 再び第一線へ 7

   模範部落に遂年増加して、江東鶏の名を馳せん

 最初養鶏模範部落の場所は、邑内からあまり遠くない実地指導に便利な前記江東面下里を選定して、同里の住民を殆ど全部組合員として、大正十五年度には組合の精神と業務に対して徹底的に実地指導を行って、組合の趣旨の普及に努めたのである。道では奨励鶏を名古屋種に決定しているが、決定前に既に計画された右部落に普及する鶏種は、白色レグホーンであって、実行方法としては成鶏及び雛の配布を為さず、種卵を無償で配布するのであるが、種卵配布の場合は成鶏乃至雛を配布さるる時と違って、自己の手に依って孵化することとなるから、従って生まれた雛に対する愛着が一層深く、従って設置の趣旨が徹底的に行わるるであろうという綿密な考えから、種卵を配布するのであって、単に経費の都合ばかりではないのである。配布の方法は養鶏家五十戸に対して、一戸当十五個宛として、その種卵七百五十個は、重松理事の生産にかかる種卵を無償で母鶏就巣の順序で配布する事として、昭和二年二月から五月上旬までに完全に配布済みとなっている。重松理事は更に進んで学童養鶏及び付近希望者という順序によって又種卵の無償配布をしていた。曩(さき)に配布した種卵は大部分雛となっていることは前に記した通りである。

それから模範部落にて生産した鶏卵や鶏は組合に於いて協同販売に附して、その代金の一部を貯金せしめて、二十円以上になったら牛を買い入れしむるようにしている。

 第一模範部落が完了すれば、更に第二模範部落を設置することになっているが、その設置方法は第一部落と殆ど同様である。配布する種卵は第一模範部落設置の際配布したのと同数の種卵を第一部落から、それぞれ寄贈せしめ、相互扶助、共存共栄の組合精神を吹き込み、かくの如くにして第二より第三、第三より第四模範部落を設置して、順次之を増設して、将来は一郡の養鶏産業をすべて改良種として、立派な一郡の養鶏産業にしようとの計画であるが、郡当局でも重松氏のこの事業に頗る共鳴し奨励に努めているから、数年の後には同氏の事業も必ず実を結んで、氏は江東郡の産業的恩人と謳われる時が来るに相違ない。

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