田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月28日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 9

 進さんは歩きながら、ソーッと毛布をあけて私の顔をのぞいて、
「重松さん、今少しだ。しっかりしなけりゃいけない。」と励ましてくれたが、私は進さんの顔を見上げて、ただ頷いた。すると進さんはまた元のように静かに毛布を着せた。

 硬く凍った小さな細道をドカドカと担架を運んで公医の所に着いた。すると待ち構えていた公医は、
「どうぞ、こちらへ。」と一室の温突に導いた。
担架が玄関の前で下ろされると、進さんとOさんとは、私を毛布にくるんだまま抱えて静かに温突に下ろした。公医は縁側に突っ立っていたが、私の乗ってきた担架の血を見て、
「おや、これは大変な出血だが、理事さんは気力がありますか?」と進さんに聞いた。私は自分で顔の毛布を押しのけて、
「公医さん、大丈夫ですよ。」と僅かに答えた。辺りを見回すと、公医の庭先の植込みには、頭髪を刈った天道教徒が十五六人ほど右往左往していたが、何れも見知らぬ者ばかりであった。そして隣りの室からは、何人かの苦悩に呻吟している声が聞こえてきた。それは勿論今回の騒擾に負傷した暴徒の一味で、庭先にいるのは彼等の友人知己であった。

 そんな具合で公医のうちは、まるで野戦病院のようであった。進さんとOさんは私の看護に付き添い、K、Sの両憲兵は私共の身辺を警戒保護の任務に当った。公医はキラキラ光ったニッケル製の治療箱と、何本かの薬品の瓶を持って私の側に来た。そして真紅に染まった血の包帯をグルグルと解きはじめたので、私は、
「公医さん、隣室の負傷者の治療は皆済みましたか?」と聞いた。公医は、
「今全部済んだところです。」と軽く頷いて、ズンズンと包帯を解いていった。

 私はそれを聞いて、この場合何とも言われぬ心の安らかさを感じたのであった。包帯を解いてしまうと公医は手早く、私にベットリとくっついている血糊を脱脂綿で拭いとって、じっと傷口を見つめていたが、やがて大きな丸い帽子瓶の中から、ピンセットで長いガーゼを挟み出して、アルコールに浸けると、それを前後の傷口にグングンと差し込んで引き出す。今度はまた別のガーゼをヨヂムの中に浸して、同じように両方の傷口に押し込んだが、私はピリピリと沁みて、肉を焼きつけられるような痛みを感じた。今までに夥(おびただ)しき出血のために、私は頻りに渇きをおぼえてきた。その時丁度、高橋獣医の奥さんが、女の身で憲兵隊の官舎から、単身で粥を小鍋に入れて持って来てくれた。

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