田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 変装 2

 負傷した私はその当時まだ独身であったので、これより先の私の看護については、邑内の人々は少なからず心を悩ました。それは全く身動きもできない重傷であるのに、専属して看護する者がなかったからである。その当時はまだ男子は警備その他連絡のために日夜奔走し、婦人方は夫々皆幼き子供を抱えた者ばかりで、人手不足な避境の地では、全くどうすることもできなかった。

それで平壌に出て入院するとしても、この場合途中暴徒の危険があるのみならず、三十八里の山坂道を自動車でかっ飛ばすには、あまりに私の身骨は重態であった。それにまだ傷口も癒えていないので、絶対安静を要するというので全く困り果てた。

 そこで私が負傷してから五日目に、邑内の人々が協議して元山に看護婦の派遣方を交渉したが、既に当地の状況を新聞で見ていた看護婦達は、例え日給十円でも二十円でも、途中も危険だし、それに生命には換えられないといって、誰も応じてくれる者がなかった。

 茲に万策尽きて、更に邑内の人々と協議した結果、かねて私が知っていた現在の妻に京城から来てもらうことになった。それが奇縁で彼女と遂に結婚したことも、私にとっては誠に奇しき因縁であった。

 その時私は危険の域を脱したというにすぎない状態にあったので、邑内の人々は協議の上、彼女に、
「十二日元山に着け、当方から迎えに行く」と電報を打って、Oさんが使っていた試作場の常庸人夫である車留基さんに、金郡守夫人の朝鮮服一切を借りて、それを元山に持たせて、朝鮮婦人に変装させて連れてくることになった。

 まだその頃は中々不穏な状態で、T分遣所長がハバロスクに出動するために元山に出るのさえも、五名の憲兵や補助員に護衛されて行ったくらいだから、若い女の身で果たして無事に着くことができるであろうか、或いは途中で変装を見破られて非業の最期を遂げはせぬであろうかなどと、邑内の人々もいろいろと案じてくれた。

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