田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月16日金曜日

序 2

 文章は非常に素直なものであった。素人らしい修飾も少なく、簡潔であった。記録文学ということを意識して書いているのでもないのだった。神経質でないあたたかさはことに好ましいものであって、筆者の人柄がしのばれるのだった。
 私の感想を聞いて岩田君も喜んだ。この文章が沢山の人々に愛し読まれていることを語って、編集者としての喜びを言った。

「そこに書かれているのは、平安南道の江東の組合時代のことですがね、重松さんは今は黄海道の支部長なんです。今日、これからお逢いできる筈ですが、」と、岩田君は言って、重松氏の人となりと仕事について話しはじめた。私たちは海州行の汽車に乗っているのであった。
 海州に着いた時、私たちは、足の不自由なからだを杖に托して駅頭に出迎えてくれている重松氏を見た。氏の温顔に接した時、私は舊知(きょうち)のような親しさを感じた。銃丸に貫かれた氏の足の負傷についてもその時はもう私は聞き知っていた。

 その夜、私は夜おそくまでも同氏の話を聞いた。朝鮮の農村事情について、江東金融組合時代の氏の生活について聞いた。話は非常に面白く有益であったが、それにもまして感じたのは氏の重厚な人柄であった。氏は特徴ある顎髯をたくわえていて、美髯といっていいほどであるが、卒然として見れば叱咤号令する人のごとき風貌である。しかし眼鏡の奥の眼は、童子のようなやさしさを湛えて輝いている。話すに従ってその心情のこまやかさ、やわらかさに全くちがった人柄を感じる。不自由な足をひきずり、跛行せねばならなかった若い頃の氏は、先ず何より周囲の住民からのあなどりをふせがなければならなかった。親しまれる前に威厳を示さねばならぬこともあったのである。後にはそのために一層親しまれることになった顎髯も当初はそんな必要からのものであった。二十数年前の朝鮮の奥地の蒙昧な生活を語る氏の話は非常にユーモラスでさえあった。私は外地における日本人について多くを知るものではないが、重松氏のような人物を見ることに有難さと頼もしさとを感じたのである。

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