不治の病に罹って田井さんは、世にも淋しい孤独の身で、今また職を失ってしまった。
こうしてあらゆる苦境のどん底に突き落とされながらも尚、俳人囚水としての生活を求めていた。そこに却って田井さんの人格がくっきりと表れて、気高くも亦床しくも思われた。
田井さんが住み慣れた陽徳をたつときに、私はほんの心ばかりの餞別に送別句として「君行けや古里はいま花盛り」と一句短冊に認めておくったら、田井さんは、「これはどうも有難う。今は全く松山も花盛りでしょう。この句は私にとっては希望に満ちたいい句で、大変気に入りました。」と低い声で幾度か朗吟して喜んでいた。
出発の前日に田井さんは、前任理事の松木さんが転任する時初めて考案して、邑内の人々から多大の賞賛を博した牛車館を作らせた。牛車館というのは、牛車の四隅に小さな柱を立て、アンペラで屋根と周囲を囲ったものであるが、その当時の奥地の転任には無くてはならぬ乗り物として人々から重宝がられていたのである。
私が邑はずれまで見送りに行くと、田井さんはその牛車館に薄っぺらな蒲団を敷いて、その上に座って痩せた身体を赤い毛布にくるんで、湯たんぽを抱えてつくねんとしていた。少し遅れて組合の洪書記が見送りに来た。外套のポケットに手を入れたまま、
「田井さん、途中随分お大事にね。」と簡単ではあったが、洪君の挨拶には真情が溢れていた。
「・・・・・・・・・・」
田井さんは目に涙を一杯ためて、黙って頷くばかりであった。
やがて牛車が雪の上をきしりだすと、田井さんは漸く、
「ありがとう・・・・・。」と言って何度も頭を下げた。そして牛車が山陰に隠れるころ、耐え切れなくなったのか、蒲団の上に泣き伏したらしかった。
私も洪君も無言のままで佇んでいた。
「田井さんが行ってしまったから、これで内地人の組合員は愈々二人っきりになりましたね。」 と洪君は私を顧た。
「そうだね。しかし君、田井さんはあの身体で元山まで無事に着くだろうかねえ。」
「元山までは二十二里もあるのですが・・・多分大丈夫でしょう。」
私は何だか田井さんの旅先が案ぜられてならなかった。
吹き渡る谷風が、折々牛車のきしりゆく音を送ってきたが、それもだんだん聞こえなくなってしまった。
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