田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 松葉杖 4

 それは春のある日曜日であった。私は愛犬ゴールを連れて松葉杖に縋って陽徳川のほとりを散歩していた。すると平元道路の方から、白い周衣を着た男が暫くじっと私の方を見つめていた。
「理事さん理事さん。」と呼ばわって、手で頻りに招いていた。私はその男の方を向いて歩いた。その男もまた私の方に向いて歩いて来た。そしてだんだん接近して行ったとき、実に実に私は大きなショックを受けた。
「おゝ、崔さん!」
私は思わず声をたてて叫んだ。崔さんは私が杖に縋って捗捗しく歩けないのを見て、自分で私の傍らに駆け寄った。そして松葉杖に縋っている私の姿をしげしげと打ちまもっていたが、
「アイゴー、理事さん!」
松葉杖を握っている私の手を堅く握ったその手を通して、崔さんの熱情がグングン伝わってくるような気がした。
私の変わった姿を見て、崔さんも流石に感慨に堪えないらしかった。私も全く予期しない、恋の豹を捕った崔さんに会って急に胸がこみ上げてきた。正に万感交々の有様で、何から話せばいいか全く分からなかった。
「崔さんは何時帰ったですか?」
「ハイ、理事さん、今が帰り道ですよ。」
「そうかね、実は昨年騒擾の時、私はどうかして崔さんに会って、一口話したいと思って、随分探し歩いたですが、とうとう巡り会えなかったが、その結果がとんでもない事になったですね。」
「理事さん、もうその事は言わないで下さい。みんな私の考えが間違っていたのです。全く考えが足りなかったのです。」崔さんはもう暗然として、恐ろしい夢から醒めたような顔をしていた。
「あの時、図らずも公医さんの内で会ったが、その時はお互いに話すこともできなかったが、崔さん、貴方の傷はその後どうですか?」と私は崔さんの額に残った淡い創痕を見て聞いた。
「いゝや、私の傷はこの通り軽傷で、僅か一週間ばかりで治りましたが、あの時理事さんは大変重傷のように見受けまして、非常に心配いたしましたが、今も尚この杖で、定めしご困難でしょう。」と崔さんは心から案じていた。
「でも崔さんは老人だから、大事にしなさいね。」
「ありがとう。時に理事さん、あそこにいた時、洪さんに会いましたよ。」
「えッ、あの洪君に?」
「ハイ、その時理事さんの負傷したことを話したら、洪さんは非常に驚いて、どんな様子であったかと聞きましたから、公医さんの所で一寸会ったが、担架に乗せられて、何でも大変重傷らしかったですよと言ったら、洪さんはそれは大変だと言って、非常に心配していましたよ。」と崔さんは細細(こまごま)と洪君に会った顛末を話した。
「有難う、本当に二人に心配をかけて済まなかったね。」私は丁寧に頭を下げた。
「そして今度、私も洪さんも特に赦されて一緒に帰ることになりましたが、洪さんは是非一度陽徳に行って理事さんにもお目にかかりたいと言っていました。私も何れまた、ゆっくり組合の方にお伺い致します。」と言って崔さんは何度も頭を下げて、後ろを振り向きながら帰って行った。私は何時も変わらぬ崔さんの麗しい人情にいたく動かされた。そして私は卯の花の咲き乱れた丘を越えて行く崔さんの後姿を何時までも見送っていた。

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