田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月25日日曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 灰かぐら 6

 私は家に帰ると、直ぐ襖を外して、日本間と温突とをブッ通しにして、ありったけの火鉢に火を入れて準備をした。

 灯し頃になると、郡庁の技手のOさんが真っ先に来た。そして火鉢の前に落ちるように座って、
「重松さんエライことになったですねえ。私は何にも知らずに出張していて、つい先刻帰ってきて、Y主任から話を聞いてやって来たのですよ。」と、火鉢に手をかざしたが、いつになく印伝の煙草入れを抜こうとしなかった。そこへまた、直ぐ隣の進さんが来たが、何れも心配そうな面持ちであった。Oさんは、
「進さん、一体どうなるのでしょうね。」と眉を顰(ひそ)めて聞いた。進さんだって勿論分ろう筈もないのであるが、こうした場合には相手から何かを求めようとして聞くのが人情である。

「どうなるかって、成川があれだけの酷い騒ぎですからね。それに此処は警備上極めて重要な位置であったから、一昨年の十月まで、一箇中隊の守備隊が駐屯していたのでしょう。それをみても、Oさん大抵想像がつくでしょう。」
「心配ですね。こんな時に守備隊があると安心ですがね。」
「そうですよ。今仮に万一の場合、応援を求めるとしても平壌へは三十八里、元山へは十二里ですからね。」
「元山の方はいくら近くても道外ですから、ソレッと言っても中々容易ではないでしょう。それに平壌から来るにしても、十六里の成川までは自動車が来ても、それから歩けば二十二里もあるから、いくら強行軍をしいても二日は悠にかかりますね。」
「そりゃ、愈々となれば、自動車さえあれば、成川からでも自動車で来られないことはないですけれど、そんな事になったら大変ですよ。」
「大変には違いないがそうなるかもしれませんよ。」
Oさんと進さんの話は段々真剣になってきた。その内に次から次へと詰め掛けて、一人の漏れもなく全員集まった。もちろん全員といったところで内地人としては、郡庁側は両主任に次席一人と技術員三名、それに登記所主任、普通学校長、雑貨屋一、宿屋一、私とも十一名で、それに郡守が加わっていた。郵便局長は通信事務のために来られなかった。

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