田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月21日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 3

 それから二三日経つと、田井さんは私が貸した検温器と薬に一通の手紙を添えて返してきた。
 その手紙によると、自分の病気はマラリヤではない。胸の病に罹っているので、それで時々悪寒がして熱が出る。悪いこととは知りながら、私は皆さんにあからさまにそれとも言いかねていたが、幸い永らく台湾にいたことがあるから、マラリヤ熱だと人さんに言ってきたが、それが非常に罪悪のように思われて心苦しかった。貴方に対しても同じようにマラリヤと言って、心配をかけたことはまことに申し訳ないが、どうか哀れな独身の病弱者と見逃してもらいたい。ご親切に頂いたマラリヤの薬は、私の病気には不必要だから、このまま手を触れないでお返しする。検温器は十分消毒してくれるよう、また自分はどうしてもこの身体では働けないから、遺憾であったが本日辞職した。それで当分暖かい郷里の松山で保養するために、二三日中に出発するから、組合に預けてある貯金を全払いしてほしいとの意味であった。
 私はこの寄る辺ない老人の涙ぐましい手紙を見、且つ陽徳金融組合という友愛的な感情から、殊更、哀れをもよおした。Oさんは、
「それで初めて、田井さんが年賀状をよこす原因が解りました。まことに心がけのよい人ですねえ。」と、例の印伝の煙草入れをポンと抜いて、銀の煙管を取り出した。

 広い天涯の孤独の身を淋しがる田井さんは、不治の病に悶々の情を消しようもなかった。それを忘れるために、俳聖正岡子規をうんだ郷土松山で幼い時に培われた俳句を、老境に入ってからひねっては、唯一の慰藉としていた。囚水という変わった雅号をつけていたが、作品には中々みるべきものがあった。
 私は時々この可哀想な老組合員の病床を訪れることを忘れなかった。

 辞職したというその日の夕方訪ねて行くと、田井さんは薄暗い温突の床の中からやおら起き上がって、
「理事さん、貴方には手厚いお世話になりましたが、愈々明後日出発します。挨拶に行かれないような身体になってしまったことを悲しく思います。」とおろおろして目を瞬いたが、また気を取り直したか「先刻このような句を一句作ってみました。
「今日よりは世事を忘れて梅見かな」 この句は私が辞表を提出したときの感想です。句の善悪は別として私の気持ちが出ているつもりです。」と笑顔をつくったが、どこかに淋しさが漂っていた。

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