田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月20日火曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 戀(こい)の豹 5

 見物人の中にいた往年の虎狩の勇士、片手の金さんは、
「理事さん、これがこの間の恋の豹の片割れですよ。」と真面目な顔をして言った。
「これは牡ですか牝ですか?」洪君が聞くと、金さんは喰い取られた右の手をブラブラさせながら、左の手を差し伸べて、痛々しい豹の後ろ足を無造作に挙げてみた。そして、
「こいつは牡ですよ。」と言ったが、耶蘇教信者の洪君は何とも答えなかった。

 それから二三日経つと、豹を捕った崔さんが組合に来た。そして予ねて借りていた三十円の購牛資金の元利を返済してしまった。崔さんはこの間捕った豹を売ったのだといって意外な収入をよろこんでいた。
「理事さん、豹のロースは美味しかったですか?。」と崔さんは古い証書を財布に入れながら聞いた。実をいうと私は、あの皮を剥がれた豹のむくろを思い出して、どうしても食べる気になれなかったので、昨日までそのまま味噌漬けにしていたが、郡の産業技手のOさんが、昨日出張先から帰って遊びに来たので、二人で勇を皷して、その味噌漬けの豹のロースをすき焼きにして食べてみたが、中々美味しかった。それを話したら崔さんは安心したらしかった。そして「また捕ったらロースをあげましょう。」と言って帰っていった。

「崔さんは、また恋の牝豹も獲るつもりでしょうか・・・。」と言って洪君は私を顧みた。
 私は何とも答えなかったが、洪君はこの上恋の牝豹までも生け捕ることは、非常な罪悪のように考えているらしかった。弱い早春の日差しが窓越しにラシャ張りの机に流れた。
 またしても教会の鐘がカンカン鳴りだした。
 洪君はペンを握ったまま静かに黙祷した。

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