田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月17日土曜日

朝鮮農村物語 序 4

「朝鮮農村物語」は農村更生物語である。そして著者は金融組合というような機関に職を奉じている人である。物語は明るくて感心な挿話に満ちているのである。従来この種類の本は少なくはないだろうが、知識階級の読者層からは多く顧られるに至っていないと思う。しかしこの本は、それらのものとはおのづからにして異なる特色を持っている。

 この本を読んで、この本が明るくて感心な挿話にのみ満ちているからといって、そのために反感を抱かしめられるという人はないだろう。「そんな感心なことばかりあるものか、こういう現実もある。こういう現実はどうしてくれるのだ。」というような態度をもった人はその感心な話に向うことはできないだろう。人は却って素朴な気持のいい感動に満たされるだろう。
 それはここに書かれていることには一つの作りごともないからである。すべては著者が身をもって踏み行ったことばかりである。そこにはまた何等の誇張も強がりもない。体験の事実が豊富だからそんな必要もないが、それよりも何よりも温雅な著者の人柄故にそんなことになりようはない。まことにこの本の生命は著者の人柄からおのづからにじみ出ている香気である。幼稚な文章も、所々にはさまれている、平凡陳腐な感慨もその香気のなかに一つに溶け込んでいる。

 近頃は三年か五年の農村指導者が非常な大きな身振りで言ったり書いたりし、さまざまな機関がまたそういう人を宣伝に使っているということが多く目につく。しかしこの本の著者はすでに二十数年間を朝鮮の農村の事に関係して暮してきているのである。そういう生活のなかから生まれ出たこの本は、本つくりの本ではなく、その人の生涯にただ一冊という種類の本なのである。

 著者の見る目や行動は、金融組合という機関を通している。そこには明白に一定の限界がある。しかしながらまたそういう限界をはるかに突き抜けているものもあるのである。美しい人間の心がそういう限界を突き抜けさせているのである。氏の行動が最も生彩を放ってくる時、私はそこに金融組合の理事を感ずるよりはじかに人間重松を感ずる。氏の人格が次第に村の人々の上に及んで、彼等の生活に幸福がもたらされる過程は感動的な美しさにみちている。

 内地の読者の間には朝鮮の事は余りにも知られなさすぎるようである。本書は朝鮮を知らしめ親しますためにも意義がある。外地における日本人の生活についても、多くの考えさせるものをもっている。農村における能率的な活動、増産ということについてはもとより非常に多く教えるものをもっているのである。

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