田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月19日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 第一歩 6

 邑の入口に長い橋がある。そこで気持ちのいい朝日が昇ってきた。そちらこちらの雪を頂いた藁屋根からは、炊煙が物静かに立ち上っている。馬夫は私を顧て、
「ヨンガムさん、今朝は早いョ。」と言って笑った。
「クロッチ。」と言って私は馬上から雪に埋もれた邑内を眺めた。
 橋の手前に、若いツルマキを着た青年が立っていて、手を挙げて私の馬を止めた。
「失礼ですが、貴方は新任理事さんではありませんか。」と呼びかけた。
「そうです。」と私は頷いた。
 青年は一枚の名刺を差し出して、
「私は書記の洪です。どうぞ宜しくお願いします。実は今朝警察電話で石湯池に聞いてみると、もう暗いうちにお発ちになったとのことで、急いで迎えに参りましたのです。まァとにかく馬から降りてください。」と私を見上げた。
私はこの先まだ数町あるのに、今馬から降りる事をばかばかしく思った。
「然しここに降りても仕方がないから、このまま行こう。」と私は言いながら髭の氷柱をこき捨てた。洪君は当惑したような顔をして、
「実は新任者は、すべて邑内の官民が出迎えをすることになっているのですが、今朝はあまりに早いのでまだその手配が・・・。」と歎願するように言った。
「君、出迎えのためならいいよ。」と私はシャンシャン馬を進めた。
洪君は私に引きずられるようについて来た。
私は馬の上で新任隊長のいかめしい成川入りのことを思い出して、あのように沢山の官民に出迎えられてはたまらない。この若い俺には挨拶は閉口だ、いや閉口するというよりも寧ろ出来ないと言った方が適切かもしれない。偶々馬夫に急き立てられて、こんなに早く来た事を今となっては幸いに思った。
 こうして新任理事の私は、二十二里の山嶽重畳たる山路を越えて、唯一人青年書記の洪君に迎えられて遂に赴任することができた。
 組合の事務室には、ドンドンストーブが燃えていた。
 馬夫はそれから直ぐ引き返していった。
 私は二十二里の間、一度も馬から落されなかったことに満足し、約束の賃金よりも一円奮発すると、馬夫は幾度も頭を下げて、後ろを振り向き振り向き帰っていった。
 取り残された私は、急に淋しさが潮の如くこみ上げてきた。

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