田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月21日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 自殺状 6

 私がこの自殺の通知状を受取ったのは、三月二十五日で最早手遅れだとは思ったが、一応その手紙を差出して憲兵隊に届け出た。憲兵隊では組合員対理事との関係、出発当時の状況等を詳しく聴取して、直ちに手配をしてくれた。
 二三日すると、元山毎日や京日や朝新の各新聞に、二三段抜きで「身は洋々たる大海へ、陽徳金融理事に宛てたる遺書、元郵便局事務員田井の自殺」という大なる一号活字の見出しをつけて、遺書なども掲げて詳細に一斉に報された。

 それ以来邑内では、田井さんの自殺話でもちきりであった。
 その話が出ると、印伝の煙草入れのOさんは、
「死ぬ死ぬと言うものに、死んだ者がないから、あるいは田井さんも生きているかも知れませんね。」とどこまでも田井さんの生存説を主張していた。
普通学校長の進さんは、
「でも、田井さんは囚水という雅号をつけていたからあるいは水死したかもしれませんよ。こんなことは何でもないようだが、実際妙な因果関係があるものですからねえ。然しそれにしても、船に一つも遺留品が無いというのは、どうも不思議ですねえ。」と推理的に判断して、Oさんのように確定的ではないが、やはり田井さんの生死については、疑問をだいていた。
 直接自殺状を受取った私は、田井さんは今は亡き人のように思われたが、またひょっくり何処かで巡り会うのではないかとも思われた。そしてみすぼらしいアンペラ屋根の牛車、赤い毛布をかむって乗っていた田井さんの姿が目の底に沁み込んで、容易に消えなかった。

 その後田井さんの生死は、全く不明であったが、何ヶ月経っても更に消息がないので、流石に生存説のOさんも、疑問説の進さんも、遂に田井さんの自殺を肯定したらしかった。
 自殺状を受取った私は、静かにこの薄幸な老組合員田井さんの冥福を祈り、且つまた静かに、その生存を祈ったのであった。

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