田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月28日水曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 貫通銃創 6

 それから暫くして、私は左の太股がチクリとしたので目を開くと、枕元に座っていた進さんが、
「重松さん、しっかりしなさい。」と言って私の手の脈をみた。公医さんは私の上に覆いかぶさるようにして、グングンと食塩注射をしていたが、ややあって、私はだんだんと意識を回復して、漸く傷の痛みを感ずるようになった。

 一通りの手当が済むと公医は、ここでは思うように治療ができないから、一応公医の家に連れてくるようにと言って帰った。公医の家は、憲兵隊から数町離れた全く反対の方向で、邑内の中を通り抜けなければならなかった。


 然るに一時退去したる数百名の群衆は、邑内の各所に屯(たむろ)しているので、この際私を公医の所に連れて行くことの可否については、かなり議論があったが、このままにしておけば斃れてしまう危険があるので、遂に決死隊を組織して、私を護衛して行くことになった。その決死隊が進さんとOさんとS、Kの両憲兵上等兵の四人で、私の前後左右を警戒することになった。そして私は俄か作りの戸板の担架に乗せられて、死人のように頭から毛布を被せられた。

 そしてまだ護衛の準備が出来ないうちに、二人の民雇(郡庁の小使)はさっさと担架を担いで、憲兵隊の裏門から急ぎ足に出たが、護衛の人たちは未だ追いついて来る気配はなかった。組合の横を通って邑内の本通りに出ると誰かが、
「アイゴ! 担架から血が落ちている。」と言ったら、また一人が、
「アイゴ! 良い理事さんが死んだ!」と言った。その声は確かに雑貨屋の金奉一さんの声であった。

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