田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 再生 5

 その翌日から毎日十時になると、ゴロゴロと長い廊下を輸送車で引きまわされて治療を受けにいったが、僅か射入口に残った三寸位の傷が中々治らなかった。元来刀傷は肉が接合すれば治るものであるが、貫通銃創は肉にトンネルのように穴を穿けられるので、中々肉が上がりにくい。それに公医がどうしても化膿させまいと思ってあまりに消毒しすぎて肉が硬化したために、新しい細胞が中々できないのであった。そしてX線で骨に故障がないかと写真を撮ったり、熱気療法をしたりしたが、容易に治らなかった。

 その間、富永部長や関田課長や連合会の佐藤理事や高見君が訪れてくれ、色々世話をしてくれたが身に沁みて嬉しかった。また本府の和田理財課長や里見屬や最寄組合の理事が訪ねてくれたことも嬉しい感謝であった。

 四旬に余る長い病院生活を続けているうちに、キルクを充填したような鮮やかな弾痕を残して、漸く傷口が癒えたので、私は再び山紫水明の陽徳に帰任して、あの太古そのもののような山の温泉で湯治と定めて、一先ず病院にさらばを告げた。

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