田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年4月16日金曜日

序 3

「それから十二年」には、その前につづく文章があるのであって、それは「わが足跡」と題するもので、やはり組合の機関紙に載ったものである。私は重松氏に乞うてその抜刷を得た。この篇は、まだ二十代の青年であった重松氏が平南の奥地陽徳に勤務中、所謂万歳事件に逢って負傷し、九死に一生を得、後に再起するまでのことを記したものである。組合では氏に対する同情から、現地の第一線から退かしめて、都会で、連合会の事務的な仕事を担当させ、氏もしばらくその任にいた。しかしどうしてもそういう生活にはあきたらぬものがあり、自ら希望して再び農村へ出たのである。そこが江東であった。その時から十二年間の生活というので「それから十二年」といったのである。

 私は雑誌連載の今までの分をまとめて送ってもらうことを、岩田君にも著者にもお願いして旅行から帰った。秋になって物語も完結したということで、今までの抜刷を一冊にまとめたものを送ってきた。
 私は通読してみた。それは私の予想どうり、農村更生物語にすぎなかった。「すぎなかった」というのは、それが文学的な著述でもなく、鋭い分析の書でも批判の書でも現実暴露の書でもないということであって、何等軽視する気持ちを含んでいるのではない。私は読みつつ、このような記録は広く読まれねばならぬものだということを強く感じた。

 私は、「我が足跡」と「それから十二年」とを携えて、中央公論社の出版部に木内高音氏を訪ね、一読を乞うた。木内氏は早速読んでくれた。そして非常に感動したと言って、進んで出版の事を引き受けられたのである。

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