田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月15日土曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 不安の一夜 1

 屠(ほふ)られた豚の生血で染め抜いたような三月五日の赤い夕日が高原地帯に下らんとして、西天一帯琥珀色に黄金色となり、更に真紅色を呈してきた。釣瓶落としに夕日が沈めば、忽ち暗黒が四方から迫ってきて、何時しか空には点々と碧寶石を鏤(ちりば)めたように無数の星が瞬いて、俄かに寒気を感じるのであった。

 その夜の邑内には流言蜚語が盛んに行われて、内地人は極度の不安に襲われた。そして女性や子供を除いた男子は、悉く奮起して警備に就いた。正門と裏門には夜もすがら篝火(かがりび)を焚いたが、それが突兀たる山岳に映じて、物凄くも亦壮烈であった。

 私は宿直室では危険であるというので、憲兵隊の宿舎に移されたが、宿舎の中央には、小さく燈火が点ぜられたが、入口や窓には毛布を二枚も三枚も重ねて吊って、絶対に外部に光線が洩れないように設備した。そして私共の周囲には、若し万一外部から射撃されても、弾丸が通らぬように書類を積み重ねた。

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