田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 1

 私が負傷してから二十日目には、漸く弾丸の射出口には肉が上がってきたが、大腿部の射入口はまだ四寸ばかり穴が穿いていた。その日の夕方に起こしてもらって、一人で壁に縋って、左足一本で漸く立ち上がった。しかし立ち上がったというだけでどうすることもできなかったが、絶えて久しく仰向けに寝ていた私は、辛うじて一本足で立ち得たことが非常に喜ばしくて、二三歳の子供のように「立てた。立てた。」と叫んで、唯嬉しさに涙をわけもなくこぼした。


 それから二三日してから、暖かい春の陽ざしが縁側に届くと、私は妻と進さんの奥さんの肩にすがって、左足で飛んで歩いて縁側の椅子に腰を下ろして、久方振りに組合の裏山の保護林を打ち眺めた。折から落葉松の美しい緑の新芽が伸び揃って、その下には白い楚々たる小米花が、くっきりと草むらの中に咲き乱れ何ともいえぬ風情であった。孔子廟やあちこちの部落には、真白に李花が咲き乱れて、私が苦悩に呻吟している間に、世は何時しか絢爛の春になっていた。  

 こうして私は椅子に腰かけて、草庵の縁先から、浮世の春を眺めるのが日課であった。

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