田中秀雄『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』重松髜修物語

2010年5月24日月曜日

朝鮮農村物語 我が足跡 その頃の便り 5

 私は読み終わって和田理財課長や土地調査局時代の工藤課長やその他、友人知己の厚意に感泣した。そして尚も四五通の手紙を見ていると、そこへ郡庁のOさんが来て、
「今日こんな義金募集の趣意書が来ましたよ。」とポケットから一通の印刷物を出して、私に差し出した。

  頃者各地に於ける不穏事件は、一部の盲動に基因するに過ぎざるも、其の民心を蠱毒し、延いて国内の秩序を紊乱(ぶんらん)したること甚だしきものあるは、遺憾に堪へざる所なり。殊に平安南道の   如きは、之が為めに幾多の惨事を惹起(じゃっき)したる事は、新聞   紙の報道に依り、既に各位の了知せらるゝ所たるを信ず。即ち左に掲ぐる諸氏は、地方の治安を保持する為に、極力之が鎮撫に尽   したりしが、多数群衆が其の勢を恃みて、暴行を敢えてするに當り、  勇進奮闘して防止に努め、遂に兇徒の毒手に殪れ、または創傷を被るに至りしものにして、其の職務に效したるの忠誠は、上下官民の  斉しく感激描かざる所なり。而して死者の遺族中には、近く夫親に   見ゆるの楽を夢想しつゝ、渡鮮の準備中突如たるこの変転に遭遇したる薄幸の寡婦可憐の嬰兒あり、或は後継者を失ひて、家運の将  来を悲観し、切に人世の無常を歎ずる老父母あり。或は纎手銃を  取り、雲霞の如き暴徒に向ひて飽くまで防衛を試み、夫君及び其の全員が壮烈の最期を遂げたる危急の場合に処して、尚ほよく武器を敵手に委せざるの措置を完ふし、纔に虎口を脱したる沈勇稱すべきの未亡人あり。此等の遺族の哀傷と殉難諸氏の憤恨とに想到し、更に又傷者の眷属近親等が憂愁の裡看護に尽せるの状況  を推察するに及びては、悲痛胸に迫り、断腸の念轉た禁ずる能はざ  るものなり。依って不肖胥謀りて、大方の同情に愬(うった)へ義金を得て、之を遺族及傷者に贈り、一つは以て死者の霊魂を慰め、一つは以て蓐中に在る傷者の苦患を慰むる所あらむとす。希くは有志各位微衷の存する所を諒とし、奮って応分の醵出(きょしゅつ)あらむことを切望の至りに不堪乃ち左に要項を具し此段得貴意候
                                     敬白
   大正八年三月
                     発起人  工 藤 英 一
                          松 寺 竹 雄
                          井戸川 辰 三
                          關 口    半
                          小 河 市之丞


              死 傷 者 氏 名

               死     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

成川憲兵分隊   陸軍憲兵中尉従七位勲六等     政池覺造  大分県
沙川憲兵駐在所  陸軍憲兵上等兵          佐藤實五郎 大分県
孟山分遣所    同                左藤 研  宮城県
沙川憲兵駐在所  憲兵補助員            金 聖奎  平安南道
同        同                姜 炳一  同
同        同                朴 堯變  同

               傷     者

  勤務地       官位勲            氏名   出生地

寧邊憲兵分隊   陸軍憲兵軍曹           中西彌三郎 奈良県
孟山分遣所    監督憲兵補助員          朴 仁善  平安南道
中和警察署    巡査部長             田村 三郎 福島県
陽徳金融組合   理事               重松 髜修 愛媛県
                                 (以上)
 
私は読み終わって、感慨に堪えないで、何時までも黙り続けた。

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